「ひとり会」を観に行ったことがある。私はどちらかというと志ん朝が好きだったのだが、談志もやはりうまい。
談志と志ん朝が存命のうちに生で観ていてよかった。
北杜夫は小・中・高にかけてファンだった。作家にファンレターを出したのは北杜夫だけである(葉書だったが、
ちゃんと本人のひと事を添えた自筆で返事が返って来た)。北杜夫の父は、歌人で精神科医の斉藤茂吉で
本人も育った病院はいまの南青山にある。北杜夫の卒業した青南小学校は私の母の母校でもあって「楡家
の人びと」に出て来る地域は時代は違えど親しみのあるところであった。
とはいえ、北杜夫の育った環境は今は消え去りつつある東京山の手のブルジョア家庭で、私や母の育った
地域は近くとも環境はおおいに異なる。北杜夫の母、輝子は家付き娘で斉藤茂吉は婿養子であった。ダンス
教師と浮名を流して新聞沙汰になった輝子が、戦時中軍の求めに応じて供出した宝石は三井本家に次いで
二番目だったという。北杜夫はこれについて、「ほかの家は秘匿したのに母はマジメに供出したから」というの
だが、マジメに出してもふつうの家はそれほど宝石があるとも思えない。
「楡家の人びと」はこうした山の手階級の戦前戦後を自分の家族をモデルにして描いたもので、三島由紀夫が
「これこそ小説なのだ!」と絶賛した(「小説」という意味は、日本では「短編・中篇の私小説」が主流とされてき
た経緯がある。現在の吉田健一の評価や、谷崎と志賀の立場を考えるとなかなか興趣深い)。北杜夫につい
ては後日他の場所で書くかもしれない。
ここまでは有名人の訃報だが、今月になって友人の弟と大学の同級生の訃報に接した。友人の弟はもちろん
年下だし、同級生は同じ年で今年の3月にプチ同窓会で会っている。今までは親世代の訃報だったが、今後は
直接自分の世代の訃報に接することになるのだろう。要するに人生の残り時間が少なくなってきたということで、
死ぬまでにしたいことがあるなら、さっさとやらないと悔いを残すことになるのかもしれない。とはいっても十分
余裕があって引退して好きなことができる立場ならいざ知らず、なかなかそうもいかないのが現実である。