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皆さんもそうであるように、ボキもブロギに書くときはある程度配慮すたり、遠慮すたりしていれ。んでもって、「ぶっちゃけて書いてみたらど~なるか」と思ったので「ミもフタもない話」とすて発表してみたりして♪

才能の話
スポーツ選手の才能はわかりやすい。プロ野球(速い球を投げたり、ホームランが打てる)、格闘技(強い)、陸上競技(速い、高い)など一般人とはかけ離れている。

頭が良い、というのも指標がある。「東大に受かる」、「弁護士である」、「本を出している」等々。すかし、こちらは指標がスポーツほど明らかではない。田中角栄(学歴はないけど位人臣を極める)、松下幸之助・小佐野賢治(学歴はないけどお金持ち)などの例外的才能の持ち主もいるからだ。(ま、「社会的に成功した」=頭が良い、とすれば指標としては明らかだが)

ま、すかし、このように世の中には「才能」というものがあって、こりは持って生まれたものだろうという程度は皆さん共通して理解はでけるだろう。スポーツ選手でも頭が良いひとでも、素質が第一。そすて、素質の上にステップを踏んで練習(勉強)しなければ才能が開花せないことも似ている。(アフリカのぴとの身体能力は高
いので有名だが、マンガのようにいきなり出てきてオランピッケで世界新記録連発、ということにはならんのも科学的練習が乏しいからといわれゅ)

スポーツとか勉強は学生時代には日常生活にあったが、大人ににゃるとそれほど身近ではなくなる。すかし、そんにゃ日常にも「才能」は隠れている。ボキは「言語表現」「味覚」「おされ」も「才能」+「練習(訓練)」がモノを言うと思うのだが、そういう見方をするぴとは少ないだろう。

しかも怖ろしいことに(おそらく)世の中の多くの皆さんが、「私のニポン語はフツ~よね」「私は味がわかるわよね」「私のおされのセンスはまぁまぁよね」と思ってらっさるようだ。こりは「フツ~」の基準をどこくらいに置くか、という問題でもあるのだが、「学校時代にクラセで運動能力抜群のぴと」「勉強がよくでけるぴと」の割合いを思い起こせばわかれように、殆どの皆さんには「才能」はござらん。(「ミもフタもない話」なのでフォローもござらん)

「それでは君はどうなのよ?」というご下問もでるかもしれん。世の中には選手としての才能はないけど、試合を解説するぴと、つまり「解説者」というのがいるでしょ。ボキは「解説者」になれるくらいの「試合観戦」の経験はござますのよ。


気の話
世の中には「科学的に解明でけない現象」というのがあらます。例えば、「お父さんが亡くなった時間に○×さんチに挨拶に行ったらし~」とか、「ここで亡くなったぴとに似てる像がたびたび現れる」などがよく知られている。

んで、多くのオバチャンはこういうのを「心霊現象」だと言い切ったりする。すかし、「お化けや霊が出現すた」という「仮説」も可能にゃら、「場の記憶」(要するに土地や建築物が像を記憶していて、何かの拍子に見せる)という言い方もできれ。だつて、「死んだぴとの」「像」や「音声」が出るだけで、「何か新しいこつをすた」わけではない。

色んな可能性があるのに、なで「心霊現象」だとするぴとが多いのかわらかん。(たぶん、そういう見解が多いので自分で考えずにそのまま乗っかってるだけなのだろう)すかし、たいすた根拠もなく「心霊現象だ」とするのは、結局「君はわらかんでも私は世界の秘密を知ってるのよ」というグノーシス主義と何ら変わるところがない。

「気」という言葉もそれに近いところがある。本来、中国哲学では物質の構成要素という面があるのだが、ニポンでは単に、「生き物のエネルギ~」とする場合が多い。すかも「気に障る」とか「気のせい」などという言葉を引用すたりして浅薄なアナロジーで説明を事足れりとすれケーセが多い。

そういう「エネルギー」があるかどうかはさておき、そういうモノが「気」であるとするのはまだ一般的に認知されてるわけでないんでないの、と思うのはボキだけであらうか。つまり、「カカオと砂糖でつくったぉ菓子」が「ショコラ」であると同様の認知はされていないはずだ。

すかし、あるとこで「子供が受験なので『気』を送ってくらさい」という記述があった。ボキとすては「受かりますように」とお祈りするくらいの「気持ち」はあったのだが、「『気』を送る」という新興宗教のお勤めのようなことを頼まれたので困惑すたのだった…。(「ミもフタもない話」につきこれ以上のオチはござらん)


ナルシステの話
ブロギに自分のさしんを出すぴとがいる。出さなくてはいかん場合もあれば、出さなくてもいいのに出すぴともいる。んで、何回も何回も出すぴとがいる。出すにはそれぞれ理由があるのだが、こういうぴとはナルシステである。(自分でそう認識してるかど~かはでんでん関係ない)

この場合、他人から見て「キレイ」「かはいい」「かっこいい」などという評価は関係ない。自分で自分を「キレイ」「かはいい」「かっこいい」、あるいは「若かりし頃の自分は」「キレイ」「かはいい」「かっこいい」と思ってらっさるのである。

別にナルシステだから悪い、というこつはない。それどろこか、自分を愛さずすてぴとを愛せるわけはない。んが、しつこいようだが、何回もさしんを出すぴとはナルシステである。(もろちん「ミもフタもない話」なのでこれでおしまい)