2月1日は建國記念日 |

GET王即位弐周年記念勅語
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇メルニ「替へ歌」ヲ以ツテ樹テリ
汝臣民モマタ肇国ノ精神ニ還リ王國弐周年ヲ「替ヘ歌」ニテ祝スルヲ欲サン
豸苗名豸苗璽
ということで君たち、「替え歌」を提出したまへ。テーマは自由☆
25円安くなる? |

ガソリンの暫定税率で自民党と民主党の綱引きが続いている。「暫定」といいつつ30年以上も続けてきたツケが回って来たようだ。私などは近くに「開かずの踏切」もないし、環状道ができようとできなかろうと交通量に変わりはないので、今後道路ができようとできなかろうとまったく関係ない。
しかし、自民党も地方自治体も「困る」と言っている。要するに「暫定」が地方財政にビルトインされているということだ。もともとガソリンの暫定税をつくったのは田中角栄で、道路特定財源という目的税の構想も角栄の発想であつた。
つまり自民党は「われわれの政権は続くのよ~ん」ということで「暫定」を続けてきたのだが、野党が参議院で優勢になってその構造が崩れたということなのか。地方財政に必要ならば堂々と「要る」といえばよいと思うのだが「税金を上げる」といえば選挙に響くのでごまかして来たのであろう。
民主党に政権担当能力があるかど~かはともかく、政権交代の可能性が出てくるとこうした問題が続々出てくるのだろう。衆参の「ねじれ」によって国会が機能しづらいのはホントウだが、やぱり「一党支配」というのは弊害も多いのかもしれん。
そのうえ日本は建設業に携わる人数が多すぎる。日本の2倍以上の人口と経済規模、面積でいえば20倍以上のアメリカよりも日本の建設投資額の方が多いという。ちゃんと調べてないのではっきりは言えないのだが、建設業に関わる人のうちかなりの部分が公共事業に頼っているのだろう。
地方は交付金がないとやっていけないのは事実であろうが、それが道路などの公共事業を通じて配分されるような構造は淘汰されるべきだと思う。将来的に人口とともに税収は減るのだからどっちにしても公共事業は減る一方であつた…。
ブンガクの死 |

マサオ・ミヨシの「抵抗の場へ」洛北出版という本を読んでいるが、非常に刺激的である。ミヨシは東京生まれの日本人だが東大卒業後アメリカに留学、UCバークレーで24年英文学の教授を勤めた。(現在はUCSD教授)チョムスキー・サイードなどとも親交を持つ左翼的知識人だ。
ミヨシに言わせれば「国民国家の概念によって構築された文学は今は死んだ」という。UCバークレーを去ったのも英文学だけを教えなくてもよい、というUCSDのオファーがあったからだとし、文学への興味は失っているという。
また、サイードの教え子でもあるビスネワイザンは「英文学とはインドの植民地経営のためにできた」という。つまり英国にとって重要なのはラテン語やギリシャ語の古典であり、英文学という概念はなかったのだが植民地のひとびとに「われわれにはこんなにスゴぃ文化遺産があるのよん」と誇示するためであったという。その証拠に英文学が最初に教えられたのは植民地においてであり、オックスフォードやケンブリッジで教えられるのは20世紀に入ってからだという。
あるいはミヨシは文学批評の本が売れないことを指摘する。文学研究・文学批評の出版は危機に瀕しており、論文が出されても読むものはいないという。
たしかに商業レベルでも文学批評の発表の場である文芸雑誌は年々減る一方だ。不思議なことに文芸誌の新人賞の応募は増加傾向にあるらしい。が、応募作品の多くは過去の文学作品を読んだことがないことが明らかだそうだ。(つまり、応募者は「文学者」を目指すのではなく「表現者」になる近道だと考えているのかもしれない)
OK、もしかしたら文学研究と批評は死にかかっているのかもしれない。では、テキストの方はどうだろう。「文学全集を立ち上げる」丸谷才一・鹿島茂・三浦雅士、文藝春秋、によれば世界文学全集の出版は1989年の「集英社ギャラリー・世界の文学」が最後だという(2007年に池澤夏樹個人編集による「世界文学全集」が河出から出始めているが、こりは古典の紹介というより「20世紀世界文学の紹介」といった方がいいだろう)
私の個人的な感覚からいっても図書館から文学全集が駆逐されている。文学全集というのは網羅的でありそれだけ場所をとる。文学全集の中には何年も借りられていないものもあろうし、もしかしたら誰も借りていないものもあるだろう。そんなモノを置いておくのであれば、もっと「七つの習慣」や「ハリーポッター」や「ホームレス中学生」を置け、ということなのかもしれん。
古典を中心とする文学全集というのは「ま、ひとは言葉を使って考えたりコミュニケーションするんだから、言葉を使った文化のレベルの上質なものはここら辺」というものを示してくれるものだろう。そして「ここら辺を読んでたり、読まなくても知ってたりするのが文化の共通基盤」という目安にもなる。
「文学」の成立と確立の過程、あるいは死については研究者でもない私が断言するわけにはいかないのだが、古典が図書館から姿を消していくとなれば(新しい文学全集がないのだらか、新規購入もないわけだ)共通する文化的基盤は「パイレーツ・オブ・カリビアン」になるぱかりである。
あるいは芥川賞受賞者が「小説を書き始めて9ヶ月」の歌手であるように、インターネット時代には文化も表現方法も多様化していくのであつた、というようなもっともらしい解説が有効なのかもしれん。
一方で光文社古典新訳文庫というのがあって売れている。特にドフトエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」がベストセラーになっている。これについては村上春樹がドフトエフスキーについて称揚しているのが影響しているのではないか、とも思うのだが売れている(=読まれている?)のは事実である。