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戦後の日本でやきものを巡る人物を問えばさまざまな角度から色々な名前が出て来よう。実作者もいれば新しい風を起こしたひともいる。しかし、青山二郎、北大路魯山人、安宅英一の3名を挙げてみるとそれぞれが独立した高峰であることに異論をはさむ者は少ないはずだ。

 

青山は趣味人、魯山人は今でいうプロデューサー、安宅は収集家、とそれぞれの立場は少しづつ異なるが(青山も収集家であるが安宅のようなまとまった量のコレクションを持ったことはなく、魯山人の収集は作陶の参考であることが多かった)独自の強烈な美意識で余人の容喙を許さなかったことでは共通している。
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以前どこかに書いたと思うが、美術収集家の伝記を読むのが好きでいささか集めもした。西洋人は公私人問わず自伝を書く者が多く(本当に自分で書いているかはさておき)、コレクターのものも多い。加えて西洋人は伝記文学自体を好むようで探してみると色々なものがある。

 

日本では自伝や回顧録を残して善いも悪いも歴史の審判を俟つという意識が低いのだろうか、もとより数も少ない。それでも興味深い人物であれば同時代や後生の作家などが調べて伝記をものにしてくれている。
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青山二郎なら、「いまなぜ青山二郎なのか」 白洲正子 新潮社、「青山二郎の話」 宇野千代 中央公論社と昭和を代表するような女傑が書いてくれた。魯山人なら「北大路魯山人」 白崎秀雄 中公文庫他、をはじめとして汗牛充棟どころか、いまだに新刊が出てくる始末だ。

 

しかし、安宅英一についてはまったく資料がない。以前少し書いたときネットで当たってみてが当人の写真もない。出てきたのは安宅コレクションを収めた大阪市立東洋陶磁美術館との関連においてのみであった。

 

実は安宅英一について書こうと試みた者がいないわけではない。前述の白崎秀雄や小説家の立原正秋も書く意欲をしめしたが、結局かなわなかった。しかし、今年大阪市立東洋陶磁美術館が「特別展-安宅英一の眼」を企画、それに合わせて館長伊藤郁太郎が安宅英一の思い出をつづった本を出版した。それが、
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美の猟犬-安宅コレクション余聞 伊藤郁太郎著 日本経済新聞社

 

である。伊藤は昭和30年安宅産業に入社後、通常業務と並行して安宅の美術収集の手助けを社命として行う。安宅産業崩壊後コレクションが住友グループの寄付によって大阪市立東洋陶磁美術館が設立されたのちは館長として現在に至る。いわば安宅英一の死後は安宅コレクションの唯一の語り部といってもいい存在だ。

 

東洋陶磁美術館も伊藤もいままで安宅英一個人に触れることは避けてきたきらいがある。「世界一」といわれる安宅コレクションだが、安宅産業の崩壊が記憶に新しいうちは収集の経緯がどうしても色眼鏡でみられてきたからだろう。

 

しかし、安宅産業終焉から30年、美術館設立から25年、安宅英一死去より13年が過ぎコレクションの収集者に正当な評価を与えるべきだという気運がでてきたとみえる。
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特別展は巡回展でもあり、

 

4/7~9/30 大阪市立東洋陶磁美術館
10/13~12/16 三井記念美術館(東京)
1/5~2/17 福岡市美術館
2/29~3/20 金沢21世紀美術館、と各地で行われる。

 

安宅英一はもともと美に関する嗅覚が鋭く(音楽の分野においてもパトロンとして足跡を残している)美術品の収集も若いときからはじめてはいたが、本格的に行うのは戦後であり50歳を過ぎてからだった。当時は混乱期であり美術品の移動期でもある。

 

安宅コレクションが韓国陶磁を網羅的に集めている(匹敵するのは韓国国立博物館だけらしい)のに対し、中国のものがピンポイントで名品のみになっているのはこうした時期の関係だという。(約1000点のうち、大半が韓国陶磁で中国のものは15%程度、あとは日本と東南アジア陶磁器その他。またコレクションの最初期の収集には
速水御舟の絵もあったが山種美術館に収められた。こちらも重要文化財2点をふくむ逸品ぞろいである)

 

安宅は神戸と東京に居場所(東京では割烹旅館を買い上げて会社の寮にして住んだ)を持ち、古美術商めぐりをした。生活は昼と夜が逆転したものであり、起床は午後4時前後。美術収集以外の身の回りは一井という秘書(元安宅産業監査役)が世話をした。あるとき伊藤が呼ばれて英一のもとを訪れた。しばし話したのち英一がふと顔に手をやるとすぐさま一井を呼ぶ。現れた一井に英一は、「一井さん、僕まだ顔を剃ってないじゃないの!」と詰るように言い放ったという。伊藤は「英国の貴族と執事の関係はこういうものだったのか」と思った。

 

つづく