Nessun Dorma ! |
3大テノールが取り上げたおかげで、なお名を挙げたこの曲、奇しくも荒川静香がフリーに選んだために日本では文字通り"寝ないひと"が続出した。
寝ずに、あるいは早起きをして固唾をのんでいた日本に最高の贈り物が届く。金メダルだ。札幌大会以来、冬の五輪で連続してメダルをとり続けていた日本に、最後になって最高の朗報が届いた瞬間であった。


金メダルの価値 |
それぞれのメダルの価値は等価であろう。どの種目も容易にとれるものではなく、メダルにたどりつくまでにはドラマや物語があるに違いない。
オリンピックを凌ぐ世界最大のスポーツイベントといわれるサッカーのワールドカップ。なぜ世界最大かといえば、競技人口の多さ、ファンの多さ、参加国数の多さ、など基礎が厚いからといえる。
他にもいろいろワールドカップはあるが、サッカーが最大最高の注目を浴びるように、オリンピックの種目も世界の耳目の的になる競技がある。マラソン、100m、といった夏季競技の人気種目に勝るとも劣らないのが、冬季の女子フィギュアである。
日本の新聞が荒川静香の金メダルによってフィギュア一色なのは当然だとしても、LATimesやOrangeCounty Registerといった南カリフォルニアや、International Herald Tribune、CNNニュース、NYTimesなど世界中の各紙が荒川の金メダルをスポーツ面ではなく、一面のトップにしている。
つまり、女子フィギュアというのは、世界中で注目されているイベントなのである。谷(田村)亮子に別に恨みがあるわけではないが、「田村でも金、谷でも金」といったローカルニュースではない。
それぞれの種目にドラマや物語があると書いたが、フィギュアにも世界をまたにかけた物語がある。日本の歓喜でひとまずクライマックスを迎えた、終わらない物語をみてみたい。
女王の退場 |

世界選手権優勝2回、ヨーロッパ選手権を前人未到の7回制した女王スルツカヤも、27歳を迎えた。競技人生の終盤は、とても順調とはいえない。肝臓を病む母親は、週に3度の透析を要し、病院に連れていくのは娘の役目である。
2004年には自身も軽度の心臓病と診断をうけ、1シーズンを棒にふった。しかも、このときにスケートがもうできないかもしれないという不安とも戦わねばならなかった。病を克服し、もう一度オリンピックの舞台にのぼり金メダルをとるというその一心で過ごしてきたに違いない。SPでの素晴らしい演技は、誰もがスルツカヤがコンディションを整えてきていることを確信したのだが。
現れなかったもうひとりの主役 |
当初トリノの主役は、スルツカヤともうひとりの女王との最終決戦の場だと囁かれていた。だが、トリノまで来たもうひとりは結局、リンクに上がらずに帰国する。それを聞いたスルツカヤはこう言った。「ミシェルが来ないなんて、私は彼女と戦いに来たのに…」
全米選手権を足のつけ根のケガで棄権し、オリンピックには万全で臨むので派遣して欲しいと嘆願書を出したミシェル・クヮン。ここ10年間アメリカのフィグアスケートを牽引してきたクヮンの願いはアメリカスケート連盟にとっては拒絶できるはずもなかった。連盟はクヮンが所有するLA近郊のスケート場で、クヮンの演じたプログラムを見て状態のチェックを行い、特例を許可する。

クヮンは5回の世界選手権王者に輝き、アメリカチャンピオンになること9回。13歳でデビューしてからのフィグア界は、まさにクヮンを中心に回って来た。しかし、ことオリンピックの金メダルに関しては1998年にはリピンスキー、2002年のヒューズという同じアメリカから出た二人の新星(15歳と16歳)に阻まれ後塵を拝してきた。

クヮンは5回の世界選手権王者に輝き、アメリカチャンピオンになること9回。13歳でデビューしてからのフィグア界は、まさにクヮンを中心に回って来た。しかし、ことオリンピックの金メダルに関しては1998年にはリピンスキー、2002年のヒューズという同じアメリカから出た二人の新星(15歳と16歳)に阻まれ後塵を拝してきた。
ここ1年のクヮンはケガなどでベストコンディションとはいえず、オリンピックでの成果は未知数。だが、25歳という年齢はスルツカヤより若く、荒川・村主とは同世代であり、充分可能性はあるとみられていた。
しかし、トリノオリンピック開幕から僅か30時間で、クヮンの(おそらく)最後のオリンピックは競技開始を待たずに終わりを告げる。記者会見でクヮンは、棄権を表明した。長時間のフライト、開幕での行進はつけ根の傷を再発させたのだ。嘆願書でも、「万全でなければ降りる」と明言したきた以上、クヮンには他の選択肢はなかった。
現れた悪魔 |

女子フィギュア史上、同じ国が違うメンバーで3回連続金メダルを獲得したことはない。前述したようにアメリカは1998年(リピンスキー)、2002年(ヒューズ)と2大会連続で獲得しており、ここでアメリカが獲得すれば、史上初となる。そしてアメリカの場合は、メダルをとるのは当然であり「誰が金をとるのか?」というアメリカチーム内での争いが主役にもなっていた。コーエンが金に届かなかった場合は「2006年につなげられなかったひと」として記憶されることになるのだ。
日本なら、選手が「ケガをしている」と聞けば、「万全なら」と一般もメディアも暖かい目で見てくれる。しかし、アメリカの場合、「今からケガで影響するんじゃ、年齢を重ねたらダメなのでは?」という見方をしてくる。
佐藤有香(元世界選手権優勝、現プロスケーター)が言うように、フィギュアの選手たちは毎日毎日技術に磨きをかけて、ギリギリの状態で過ごしている。そのギリギリを1年間続けて世界選手権に向けて調整する。それを3年続けて迎えるのがオリンピックである。才能と技術が伴わなければその世界には入れないが、一度入れば限界を超えるような体力と精神力が必要になってくる。これを知るならば、アメリカのファンのような厳しい視線も当然かもしれない。
しかし、アメリカでは厳しい目もある代わりに得られる果実も大きい。フィギュアスケートのトップ選手といえば全米のアイドルである。オリンピックの金メダルといえば、広告価値も倍増する。一説には、コーエンが金メダルをとった場合、20億円の広告契約料が入ってくる計算だったという。

1998年のリピンスキー、2002年のサラ・ヒューズのふたりの金メダリストはオリンピック終了後、引退してプロに転向している。現在、23歳と20歳のふたりが競技生活を終えたのも、巨額な収入が得られるからであろう。女子フィギュアで金メダルに輝き4年後に再度王座に立ったのは、1984年と1988年のカタリナ・ビット(当時東ドイツ)ただひとりである。ビットについても、当時の東ドイツがプロ転向を認めず、選択肢がなかったからだといわれる。

1998年のリピンスキー、2002年のサラ・ヒューズのふたりの金メダリストはオリンピック終了後、引退してプロに転向している。現在、23歳と20歳のふたりが競技生活を終えたのも、巨額な収入が得られるからであろう。女子フィギュアで金メダルに輝き4年後に再度王座に立ったのは、1984年と1988年のカタリナ・ビット(当時東ドイツ)ただひとりである。ビットについても、当時の東ドイツがプロ転向を認めず、選択肢がなかったからだといわれる。
SPで一位につけたコーエンだったが、コーエンにはSPで好成績を挙げ、フリーで台無しにしてしまうという悪癖がありアメリカのメディアは「demon(悪魔)を御せない」と呼んでいた。4年前のオリンピックでも17歳のコーエンはSPを3位で終え、メダルを期待されたが結局4位に終わる。全米選手権でもSPで首位にたちながら優勝を逃すという繰り返しをした。
クヮンなき2006年の全米で優勝し悪魔は去ったと思いきや、やはり現れる。最初のジャンプで金メダルの夢は消え、アメリカのメディアは"1回10億円の転倒"と失望を露わにした。


コーエンはかなり自己主張が強く、自分の思い通りにことを進めたがることでも知られている。前日の公式練習にも姿を見せないコーエンに対し、安藤美姫のコーチで元金メダリストのキャロル・ジェンキンスは、「休んでいい結果が出る場合もあるけど、こんな大きい大会の場合は異例だ」と評した。
コーチのジョン・ニックスは公式練習をするように勧めたが、「疲れていてそんな気分じゃない」とコーエンは従わなかった。76歳のニックスと21歳のコーエンの関係は、コーチがいつも「うん、サーシャそうするよ、うんサーシャ、その通りだ("Yes, Sasha, I will. Yes, Sasha, I will. Yes, Sasha, I will.")」と応じているといわれる。
前日の公式練習を休んだコーエンは、競技直前の練習もうまくいかなかった。最終グループの練習中に、荒川と接触しそうになったほど周りが見えていない状態だった。試合後に彼女は、「結局は私の人生で、ある一日の4分間」と平静を装い、「あの演技で銀なら、贈り物だと言っていいわ」と表現した。
つづけ!