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トリノオリンピックが開幕いたしますた。現在までニポンのメダルは0、しかしSports Illustratedも
開幕前のニポンのメダル予想は数個でありませたので、妥当なところかもすれません。

さて、IHTにトリノオリンピックにまつわるお話が載っておりませ。なぜ、トリノでオリンピックが
開催されたのか?ちょっと抄訳してみませう。(かなり端折ってありませので、興味あるぴと
は自分で原文読むよろし)


トリノ市内にはチェーンが必要だったり、道路に塩を撒くような雪はない。雪は車で1時間以上
かかるセストリエーレやセサーナのような山のリゾート地にあるだけだ。

トリノは海抜も低く、ウィンタースポーツの中心というよりも完全な都市である。街中ではフリース
よりも光沢のある革がより多く見られる。

アイスホッケーのパックよりも、サッカーボールに人気のあるこの街になぜウィンタースポーツの
祭典がやって来たのだろうか。市当局は、自動車会社フィアットの本拠地として栄えた市の新しい
エンジンを求めているのだ。

前市長でトリノオリンピック組織委員長のValentino Castellaniは、近郊のサボイやバルセロナ
といったオリンピック開催地からの助言を受けて活性化をもくろんでいる。

冬季オリンピック自体も、小さな親しみやすいオリンピックから大都市へのオリンピックへと変化
して来ている。1998年長野は人口30万人、2002年のソルトレークは20万人。そしてトリノは85万人
を抱える都市であり、近郊までふくめれば200万人の都市圏だ。

Castellaniによれば、最初にトリノでオリンピックを開催する構想を持ったのは、1997年にトリノ近郊
のセストリエーレで行われたワールドアルペン大会で警備を担当したイタリア警察軍※のFranco
Romano将軍だという。

当時市長だったCastellaniは、Romano将軍のアイディアを進めようとした。しかし、その時点ではたん
なるアイディアに過ぎず、市を売り込んで将来の開催にこぎつけようというのが主な目標であり、2005
年にトリノが選ばれるのは現実的でないとも考えていた。

だが、同時により強力な人物に動いてもらなわければ前に進まないだろうと思い、事実上のトリノ
大公である、Gianni Agnelli(ジャンニ・アニェッリ)のもとを訪れたのだった。

イタリアでは"l' Avvocato"(弁護士)と呼ばれ、フィアットの総帥、またサッカーチーム「ユベントス」
のオーナーでもあるAgnelliは、公私両面にわたって20世紀後半のトリノと一心同体といってもよい。

訪れたCastellaniに、Agnelliは、「わかった、素晴らしい考えだ。応援しよう」と快諾する。

今回のスキー競技の会場でもあるセストリエーレも、フィアットの創業者であるAgnelliの祖父が
開発したものであり、1997年のアルペンスキー大会はAgnelliの影響力により実現したといわれる。
(フィアット社が19ヶ国に対し、自動車を提供したという話や証言がある)

アルペンスキー大会より大掛かりなキャンペーンを要するオリンピック誘致活動に、フィアット社は
主要なスポンサーのひとつとなる。当初、スイスのシオンが有力であるとされていたが、ソルトレーク
のスキャンダルで10名のオリンピック委員が辞任。Agnelliの友人で当時のオリンピック委員長だった
サマランチが召集した緊急事態委員会に、Agnelliは委員として参加している。

ソウルでの開催地発表で逆転勝利を果たしたトリノだったが、Agnelliは2003年に死去。オリンピックを
目にすることはできなかった。しかしトリノ市民にとって開催は、"弁護士"の最後の遺産である。

セストリエーレでは、選手と観客が競技場に向かうにはAgnelli広場を通り、トリノにある国際メディア
センターはフィアット工場跡地の一部に建てられている。

開催にこぎつけたCastellianiにとって、成功は競技期間中にはない。トリノという名に親しんだアメリカ人、
日本人、中国人が競技後に訪問や投資を決定するかにかかっているのだ。
http://www.iht.com/articles/2006/02/09/sports/OLY.php

1921年にフィアット社二代目であるエデュアルドと貴族の娘であるママンのもとに生まれたGianni Agnelli。
14歳で父が亡くなりますが、1966年45歳でフィアット社会長に就任するまで帝王学を身につける
と同時に世界中をまたにかける優雅な生活をおくりませ。(1945年に大学卒業後、副社長として
入社するも実際の経営には携わらず)

ジャンニが青年時代を過ごした戦後すぐの時期は、まだ戦前の上流社会が残っており、アメリカ
とヨーロッパをまたにかけ飛行機で遊びまわる彼らには"ジェットセット"(jetset)と呼び名がつけ
られますた。

また、当時はジャンニもその最後の一翼を担った、「プレイボーイ」の時代でもあり、アリー・カーン※、
ポルフィリオ・ルビローサ※などを筆頭に、オナシス、ニアルコス、フォード二世などの国際的
遊び人が名を馳せたらすぃ。

会長就任後は、ソ連(当時)、ブラジル、スペインに生産拠点をつくりフィアットの国際化を進め
同時に商用車や航空機の生産にも乗り出し、多角化を進めませ。ランチア、アルファ・ロメオ、
フェラーリ(&マセラッティ)を次々と傘下に入れ、フィアット社を世界的大企業に育てあげます。

また、ユベントスの名誉会長、マスコミ各社の経営なども手がけ終身国会議員にも選ばれて
いますた。そのプレイボーイぶりは衰えず、死の直前まで「抱かれたい男」の上位に掲載され
てをりますた。

長野オリンピックのときの堤前コクド会長のように、トリノでも"帝王"がいらっさったようですにゃ。
しかし、この"帝王"はイタリア人に最後まで愛されて一生を終えたようれす。実はフィアット社は
自動車産業の国際的再編の波に乗り遅れておりませ。一時はGMに買収されると思われていま
すたが、GMから株を買い戻したようれす。EUができたのち、イタリアもフィアット王国というわけに
は参らないようでせ。



警察軍-国防省傘下の国家憲兵、正式名称は l'Arma dei Carabinieri 。イタリアでは陸軍・海軍・
空軍に次ぐ第4の軍隊として認知されている。

アリー・カーン-(Prince Aly Solomon Kahn) 1910年、イスラム教イスマイリ派第48代イマーム、
アガ・カーンの長男としてトリノ!(ママンがイタリア人)で生まれる。(イスマイリ派は、代々のイマーム
を指導者として崇めるシーア派の分派で、信者はイランからパキスタンなどに存在する)
少青年時代のほとんどを英国を中心とするヨーロッパで過ごし、馬術競技に親しむ。イスマイリ派
のいわば王子として、ヨーロッパ社交界に出入りし、数々の浮名と女優リタ・ヘイワースとの結婚
などで有名。あまりの遊びぶりに、父アガ・カーンは、第49代イマームにはアリの息子(現カリム・
アガ・カーン)をあてることにするほどであった。馬主としても有名で、第二次大戦後はパキスタン
の外交官としても活躍するが、事故で死亡。

ポルフィリオ・ルビローサ-(Porfirio Rubirosa、1909-1965) ドミニカ共和国将軍の息子として
生まれ、父の任地パリで青年時代を過ごす。軍隊に入隊し、当時ドミニカの独裁者であった
トルヒーヨの副官として勤務するうちに、トルヒーヨの長女と恋愛し結婚。独裁者の婿として要職
につく。1937年離婚するが、トルヒーヨとは疎遠にならず外交官として活躍する。スポーツマンと
しても名を馳せたルビローサは、ドリス・デュークやバーバラ・ハットンといった女富豪との結婚と
離婚を繰り返す。またザザ・ガボールをはじめとする女優との恋愛、著名人の妻との不倫といった
スキャンダルでも有名になり、プレイボーイの名を欲しいままにする。56歳のときにフェラーリを
運転中に事故死した。