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先日のPulp Fiction記事でございますが、少なからぬぴとから「お下品である」的なぉコメンツ
をいただきますた。あぁた達、

1)このぉ映画はカンヌ映画祭パルムドールのぉ芸術作品ざます、
2)ヘヴィのダンナさまに失礼ですよ。


英語(あるいは、他の言語でもさうでしょうが)を習得するには、語彙・文法・背景(frame of reference
的な文化の集積)が必要れす。とくにある程度習得が進んだ場合、3番目がにゃいとコムニケーソンが
うまくいきません。これは広い範囲の知識や文章の組立て方など、発想法までふくむものれす。
例えば、アメリカは大統領制であるとか、イギリスは立憲君主制であるとかの国の成り立ちも、
直接英語には関係ありませんが、実際に英語を使う場合には必要な知識になります。

その中のひとつとして、英語はニポン語より論理的にさべる方がよい、ということがあります。
こりは決してニポン語が英語より論理的でない、といふこつではありません。

ニポン語からいうと「英語の方がクドイ言い回しを要する」ということです。つまり、ニポン語では、
以心伝心、男は黙ってサッポロビ~リュが高等コムニケーソンです。文化的背景が一緒であるために
"省略"が求められるのです。

それに比べると、英語はレトリックが歓迎されます。わかりきったことでも重ねた方がよいのれす。
単に「4だ」というよりも、「1+1は2だろ。2+2は4だ」という方がよいと言うことです。

アタチが例としてお出しした、Pulp Fictionの会話でも「脚のマッサージはやっちまうのと"同じ球場だ"」
というウ゛ィンセントのレトリックを逆手にとってジュールスが、「同じ"球場"でも"リーグ"でも"スポーツ"
でもない」と畳みかけていくわけです。これがニポン語なら、

「脚のマッサージなんて、ヤルのと一緒だよ」
「ヤルのとは違うよ」

で、終わりでしょう。つまりニポン語では会話のレトリックは余り現実味がないのれす。村上春樹の
作品で会話がおされであるにも関わらず現実味がないのは、レトリックが豊富だからだと言えまする。

では最後に、試しに「にゃ~ちゃん訳」を書いておきます。もし、これが違ってると思うぴとは、アタチ
より英語ができるヘヴィ人間です。こんなとこにゐないで、どんどん先に進みなさい♪

※この文章で出て来る「英語」、とはほとんどアメリカ英語を念頭に書かれておりまする。

ヴ 俺にいわせりゃ、マッチで火遊びすれば火傷するってこった。
ジ どういう意味だ?
ヴ マルセロの新妻に、脚のマッサージなんかすんなって事。
ジ 過剰反応じゃないっていうんだな?
ヴ アントワンはマルセロがやったような事になるとは思っていなかっただろう、でも
   反応はあると思わなくっちゃ。
ジ 脚のマッサージだぜ、何でもないだろう、俺はおふくろにだってするよ。
ヴ マルセロの新妻に親しげに手をかけるんだぜ。やっちまうのと同じくらい…、いや違うか、
   でも同じ野球場にいるっていうことかな。

ジュールスがヴィンセントを制止する

ジ おいおいおい、ちょっと待ってくれ。やっちまうのと、女に脚のマッサージするのは同じじゃねぇだろ。
ヴ 同じじゃないよ、同じ球場だよ。
ジ 同じ球場でもねぇよ。いいか、おまえのマッサージのやり方は俺のと違うのかもしれん、だが、
   奥さんの脚に触るのと、至高の聖域に舌を突っ込んじまうのは、同じ球場でも、同じリーグでも
   ない、同じスポーツですらねぇだろうよ。脚のマッサージなんてそんな意味ないよ。
ヴ 脚のマッサージしたことある?
ジ 脚のマッサージについての説教なんかすんなよ、俺は脚師匠だぜ。
ヴ たくさんやったんだな?
ジ あったりまえさ、技術は習得済みだ。くすぐったいとか一切ないときたもんだ。
ヴ 男に脚のマッサージしたことは?

ジュールスは、ヴィンセントを長いこと見つめる

ジ うっせぇ、ハゲ!


※必要ないと思いますが、要するにヴィンセントが「脚のマッサージは下心がある」というのに対して、ジュールス
は「脚のマッサージは下心と無関係」という説をとります。脚のマッサージを何度もしているというジュールスに
ヴィンセントが「男にするか?」と問うと言葉に詰まってしまいます。ジュールスはここで、下心と関係あるのに気づいた
のですね。