嫌われ者というのは嫌われ者なりに活力がある、気力があるので、まさにそのために彼は毛虫のように嫌われる訳である。世人は嫌われ者を疎ましく思い排除しようとするのだが、ともするとやり過ぎる事がある。つまり嫌われ者を無気力な無害な人間にしてしまう。統合失調症みたいな廃人にしてしまうのである。ところが世の中便利にできていて、一旦そういう廃人にしてしまうと、悪いのはそういう病気になった方だ、病気なのが悪いのだという事になってしまう。非は病人の方にあるという事になるのである。そればかりではない。統合失調症の患者は次の点が最も非常識だと言われているのである。即ち、

「誰も僕が病気になった詳細な経緯を辿ろうとしてくれない。具体的な経過を誰も知ろうとしてくれない」

と主張することが、である。

病気というものは医者に治して貰うものである。だから、病人は医者を頼りにする。頼りにするばかりでなく医者の治療方法に対して評価を下す。

「先生の言う通りにしたのに、ちっとも良くならないじゃないですか」

ぐらいのことは言う権利を有すると思う。

ところがこの病気(統合失調症)の場合、どうも勝手が違う様である。第一患者は治療を受けるに当たり、変な入院の仕方をして治療を受け始めるから、自分が治療者(医者)と対等だという意識は持ちにくい。そのせいか患者が治療者に対して訴える不平というのは、何かピント外れなところがある。私の洩らす不平、病気は良くなったが生活が良くならないと言う訴えも、一見変な言いぐさである。何か根本的なところで間違っている様に見える。こういう不平を洩らすのは滑稽な事のように思えてくる。。私はまったく理にかなわない事を考えているのかもしれない。私は頓珍漢なのかもしれない。

しかし、私の言い分も聞いて欲しい。境遇上の弱者という者についてである。

病気の有無に関わらず、境遇上の弱者という者はいるだろう。医者は患者の病気を治すのであって、患者の境遇を改善する役割など担っていない。精神病を治してもらった患者は、病気が良くなっても自分が境遇上の弱者であることを思い知らされただけだと感じるかもしれない。あまっさえ、病気が良くなったことがこの境遇上の不利益に更に拍車をかけたと考えるかもしれない。例えば、自分の事を快く思わない人たちが、病気が良くなったことで、更に自分を憎むようになったなどという場合である。

私は自分がそういう境遇上の弱者だとは言わない。しかし、私がまったく理にかなわない事を言っているのではないこと、私が頓珍漢な事を言っている訳ではないことは分かってもらいたいのである。

理屈も感情と似たところがあるかもしれない。単に正しいか正しくないかという質的な相違だけではなく、量的な違いがあるかもしれない。真面目に考えている積もりでも、単に自分の怠け具合を観察しているだけかもしれない。