「目的のためには手段を選ばず」とは、随分卑劣なやり方の様に見なされるが、例えばあらゆる科学はある意味で、このやり方を踏襲している。文章をしたためるのに当たり障りのない表現を用いるのも同じことである。方法自体が野蛮なのは科学の方だが、非難されやすいのは表現の方である。しかし、あらゆる事が科学である、科学的に解決さるという信念に立つ点では、両者は同じである。
「目的のためには手段を選ばず」とは、随分卑劣なやり方の様に見なされるが、例えばあらゆる科学はある意味で、このやり方を踏襲している。文章をしたためるのに当たり障りのない表現を用いるのも同じことである。方法自体が野蛮なのは科学の方だが、非難されやすいのは表現の方である。しかし、あらゆる事が科学である、科学的に解決さるという信念に立つ点では、両者は同じである。
中庸という言葉が真価を発揮するのは、行き詰まった時、袋小路に追い込まれた時である。そういう時、この言葉はいい加減になることを、適当に済ますことを教える。人間をしてその本来の使命を忘れさせることが、偉大な理性そのものとなるのである。
未来を安易に思い描くこと、楽観的観測をすることは誰にでもある。それが何も、実際の未来と違っていたからと言って悲嘆するにはおよばない。楽観的な観測はそれが実現する必要はなく、ただ楽観的になれるということが大切なのだ。悲観的になると最悪の人生ばかりを思い描くようになる。どう足掻いても浮かばれない、死んだ方がましな人生が 待ち受けているように思われてくる。楽観的になれない人は結局、楽観的観測というものを一通りにしか思い描くことができない。それは自分が死んでいなくなっているという未来、消えてなくなっているという未来だけである。