A型事業所の社員なるものは、実に優秀な人達である。仕事に関しては至って有能であり、また明朗にして闊達であり人間としての真価が極めて高く、人格においても非の打ち所がない。要するに彼らは障碍者なんてものではないのだ。どこからどう見ても健常者であるとしか言い様がない。普通の健常者がたまたまA型事業所という会社で働いているという言い方が一番正しい。私は、以前このブログで、精神病の再発の危険といった内容の記事をしきりに投稿していた事があったが、こんな優秀な患者さん達を目の当たりにしてみると、井の中の蛙とでも言おうか、実に卑小な記事を書いていたものだと深く恥じ入る次第である。
A型事業所で働いていると、奇妙なことがある。
ほかのメンバーに対して違和感がある。もっと正確に言うと、他のメンバーと私とでは、嗜好が異なるのである。
他のメンバー達が、異口同音に、
「誰々さんは面白い人だ」
と褒めるその誰々さんなるメンバーの事を、私は少しも面白い人だとは思わない。むしろ、詰まらない奴だと思う。
他のメンバー達が面白そうに談笑しているその話の内容を聴いていても、私は少しも面白いと思わない。どこが面白いのだろうと不思議に思うのである。
こうした私の疎外感をもたらす原因を、私なりに突き止めようと以前から努力してきた。考えられる唯一の原因は、私と他のメンバーとの年齢差である。従業員たちは概して若い人たちが多いのである。私の様に年を取っているのはメンバーのごく一部だけである。
では、どうして年を取っていると違和感を感じるのか?それは多分、精神病の治療を施され、リハビリを行った年代が異なるためであると思う。つまり、最近の、最新の精神医療は、私が詰まらないと思う人間を面白いと思い、私が詰まらないと思う話を面白いと感じるように、患者を矯正して いる訳である。
そう考えると、私は、どんなにA型事業所に居づらくても、どんなに毎朝出社するのが苦痛でも、この最新の精神医療なるものを自分には施されなかった事を、自分の幸福の一つであると思わずにはいられないのである。
今年の干支が蛇であるからという訳でもないが、森鴎外が「蛇」という小説を書いているので紹介したい。全文を載せてもよいが、あらすじだけを書いてみた。
穂積という宿屋ではない家に泊まり合わせた客がいた。夏の夜であったが、幾間かをへだてて女の早口でしゃべり続けている声が聞こえる。女は一人でしゃべっているらしい。もしや狂人ではあるまいかと客は思った。穂積千足という主人と、清吉爺さんという人と二人から、客は仔細を聞いた。
明日は御隠居(主人の母親)が亡くなってからふた七日になる。主人が24歳で妻を迎えた時の事である。婚礼の翌朝の朝食で、主人が真ん中に、両側に御隠居さんと嫁さんが座った。嫁さんは下を向いて御隠居と主人の話を聞いていたが、ろくに物も食べずに先に席を立ってしまった。昼も晩も同じように嫁さんだけ早く席を起った。その次の日からは、用事にかこつけて、嫁さんは遅れて食べに出る。主人がなぜかと問うと、どうもお母様の話が嫌いでならないと言う。食事の時は嘉言善行というような事を話す事になっているが、あんな偽善の話は厭だと云ったそうである。その事を聞いてから、御隠居は言葉少なに、遠慮がちになった。穂積家は沈黙の家になってしまった。
この妻が発狂したのは最近の事である。御隠居の初七日の晩の事である。妻が線香を上げに仏壇を覗くと、大きな蛇がとぐろを巻いていたが、鎌首を上げて、じっと妻の顔を見た。妻はきゃっと言って倒れてしまったが、それから気がおかしくなってしまった。家の者が驚いて蛇を掴まえて野原へ棄てたが、翌朝になって仏壇を見ると、蛇はちゃんと帰っている。奥さんの御病気になられたのは御隠居様を疎ましくなされた罰だなどと囁きあう者がいる。
客は「蛇は今でもいるのか」と、爺さんに尋ねた。
「はい。じっといたしております。」
「そうか」と言って、客は仏間に案内してもらい仏壇を見ると、香炉の向こうに果たして蛇がいる。大きな青大将である。客は蛇の尾を手でつかむと魚篭(びく)に入れて蓋をした。
妻を見ている医者は、長野から呼んだが精神病専門ではないと聞いて、是非東京から精神科医を呼んで診せたほうがいいと客が勧告して、小説は終わっている。
(鴎外選集第3巻より)