何事であれ多面的である。様々な面をあわせ持っている。

 

 

障がい者雇用の会社は、障がい者の事を理解し、障がい者の事情を斟酌してくれているのは事実である。

 

 

しかし、同時にまた、障がい者雇用の会社は、障がい者をまるで人間扱いしていない。精神障がい者の癖に労働意欲を持っているのはもっけの幸いだ。こき使って搾れるだけ搾り取ってやろうと目論んでいるのも、また紛れもない事実である。

 

 

会社は障がい者の性質を、病気に起因する性格、情緒、行動の傾向、思考の方法を誤たずに把握している。さればこそ、その障がい者を使役する手段たるや、冷徹と言っも過言ではない過酷な労働条件を押し付けるのである。

 

 

一見その様には見えないのは、当事者間においてしか通用しない事が行われているからである。

 

 

というのは、会社は何よりも社員を精神的に負担を負わせる。相手が精神障がい者というまさにその理由から、社員を精神的に追い詰めるのである。

他人が何を考えているのか、どういう料簡でいるのかが、私には皆目わからない。それとまったく同様にして、他人もまた私の考えていることがわからない筈である。にもかかわらず、私は時おり、己れの精神の内部が他人に筒抜けになっているのではないかという恐怖に駆られる。これが私を病人ならしめている所以の症状、すなわち関係妄想である。

家電製品が故障して、その修理をメーカーに依頼したとする。さて修理が完了して、郵送されて戻ってきたその家電をいざ使ってみた。指摘した故障箇所は確かに直っていたが、今まで何ともなかった別の機能がおかしくなっているのである。この場合はどうしたら良いのか。

SACDが再生できなくなったのでプレーヤーを修理に出した。戻ってきた製品を使ってみると、SACDはたしかに再生できるようになっていたが、今まで何ともなかったデジタル入出力がまったく機能しなくなっていた。修理に出す前までは正常に機能していたのだから、無償で修理してくださいと、もう一度依頼しなければならなくなった。一体修理業者というものは、新しい製品を量産する生産ラインとは一線を画する異業種である所為か、仕事が雑である。

このCDプレーヤーとDACを繋いでいたデジタルケーブルを新しく買い替えようなどと目論んでいたのであるが、まあ、そんなものを買わなくてよかったというものだ。