ここしばらく、ずっと罪悪感と孤独(aloneness)について考えてた。
いま使っている91番のボトルを選んだ時のカウンセリングで、話してもらった事でもあった。
まぁ気付きに近づく色んな事もあったけど、
いまは忘れないようにメモる。

罪悪感は気持ちの悪いもの。
モヤモヤと真綿で自分の首を絞めるような。。縛り。
でも。
罪悪感は「悪い事をした…」と自分自身を善人足らしめる意識、でもある。
罪悪感という十字架を背負う事は、ある意味自身への癒しにもなっている。
だから罪悪感とは手放しづらいのだと。
罪悪感を手放すと、今度は孤独に見舞われる。それはとてつもない恐怖の感覚だ。
そのどちらも一気に味わえる事が起きた(苦笑)
考えがまとまらず、ただただ感じる事だけに埋没した日々を過ごした。

どちらも、ヒントがosho禅タロットにあると分かっていながら、
見たいようで見たくなくて、ずっと横目に眺めてた。
やっと時と気持ちが熟したのか、見る気になった。

どちらにも共通してる気がする。
それは"見方"であり"選択"な気がする。
まぁ言ってみれば、コーヒーカップに
"半分しか"入ってないと感じるか
"半分も"入っていると感じるかでは、
同じ状態でも自分に取っての意味や価値は
確実に違うという事だ。

それは例えば、ダメな自分を最悪と罰するか、
ダメな自分も自分と許して受け入れる(教訓として生かす)かで、
まったく違ってくるという事だ。
自分を受け入れるという事は、多分自分に責任を持つ事なんじゃないか。

寂しさは他者の不在、独りあることは自己の現存だと、
(aloneness)の解釈に書いてある。
見方だ。捉え方。

91番は、54番セラピスベイを使い終わり、
その流れで出て来た課題の解放に使っている。

いま1/3強使ったトコロだが、
過去の、子供時代の辛かった自分へ向けて使っている。
もう大丈夫だよ、と。

でも、なかなか子供時代の自分がアクセスさせてくれない。
イマイチ入り込めずにいた。

さっき、ふと繋がった気がした。
子供時代の自分と、罪悪感と孤独。
子供の私は追い詰められ逃げられず、
八方塞がりで、そんな自分に嫌気が差し、
本当の自分を救えない自分に罪悪感を感じてた。
罪悪感を手放せないから、独りあるという状態にもなれなかった。
過干渉の中で心だけが置いていかれ、
かまわれてるのにとてつもなくさみしくて、
守られた環境を作ってくれていたのだろうけど、
まったく私のスペースも発言権も許されてなくて、
私は家に居ても安心して過ごす事が出来なかった。
さみしいのに、独りになることすら許されない環境だった。
それは、まだ子供で自立が叶わず、選択の余地がなかったからだ。
自分が(経済的)自立をすれば、自分で選択し責任を持てる。
それが、私が得られる自由だった。

今はもう自由を選んでいい。
それは罪悪感を手放す事だ。
で、はじめて独りあることを実感出来るのだろう。
そこに向けて91番を使っていけばいいのかな~と
ふと思ったのでした。




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