またもや2001年JGTCのアーカイブ放送の話題。この大型連休期間に一気に放送されるので
放送上2001年シーズンはあっという間に佳境へと向かいます。
前回は第3戦でAE86が炎上した無念の話題が中心でしたが、今回は第4~5戦から。
第4戦は富士250kmレースでした。子供の頃はレース距離なんて全く気にしていなかったので、
250kmなんて設定があるのも知りませんでしたが、平均速度が低いCP MINEも250kmなんですね。
このレースで、この年初参戦のTeam UKYOスープラがPPを獲得します。
片山 右京は1999年にカストロール・トムス・スープラの37号車でJGTCに初参戦、から2000年は
カストロール・ニスモGT-Rでミハエル クルムと組んで出走、と今ならなかなか考えづらいような流れから、
この年は自チームでの参戦。メンテナンスはセルモに委託していますが、型落ちのスープラです(´・ω・`)
しかしいきなり富士でポールを獲った要因の1つが『救済措置』。近年のファンの方には謎の制度でしょうが、
2008年まで導入されていたもので、予選・決勝のタイムなどいくつかの条件が適合した場合に、
リストリクター径を1ランク、ないしは2ランク拡大してもらえる、というものでした。
特に富士やもてぎは効果絶大なので、年間タイトルが厳しそうなチームなどは、ここで救済2ランクを貰うために
その前のレースではペースをある程度制御して「わざと遅く走っておく」テクニックもありました。
公式サイトには救済対象が記載されており、このレースだと
こういう感じになってました。翌2002年以降はウエイトハンデの欄に併記されるようになりますが、
テレビ中継では一切表示されない要素で、解説されない限り知る由がないという、
『知ってる人だけ知ってればいい』感じの取り扱いになってましたね。
結局右京スープラは後半ガタガタになって13位に終わりました。近藤 真彦、94年からJGTCに出てますが、
さすがに周囲のレベルがかなり上がり出した中で苦しい立場でした。解説の鈴木 恵一は、
近藤に何かスピン等あるたびに「マッチですよ~」ってちょっと飽きれた感じで言ってました^^;
また、このレースは結局スカイラインGT-Rが1、2位を獲りますが、優勝したザナヴィヒロトGT-Rと
2位のペンズオイルゼクセルGT-Rでは仕様が違うという解説もありました。
これはさらに厄介で公式のエントリーリストを見ても分からない部分ですが、参加車両には
『性能調整テーブル』というのがあって、記憶がさすがに曖昧ですが、最低重量とエアリス径の
組み合わせがいくつか設定されていたので、重量を重くしてエアリスを拡大する、ということができました。
富士では直線が長いので、ちょっと重量が増えてでもエアリスを拡大する、という手法が取りやすく、
同じニスモのGT-Rでも重量/出力が異なる、なんてことがあったわけです。
このテーブル、今のJAF GT300にはまだそれっぽいものがあった気がしますが、何せGTは規則の詳細が
有料会員とかにならないと手に入らないので情報ソースが無いです^^; まあ当時のように、同じ車が
複数いないのとレース毎にBoP調整があるのでさほど気にすることは無いんですけどね。
続く第5戦のもてぎはNSXが得意のサーキット!のはずですが予選で低迷。しかもPPのMobil1 NSXは
早々にタイヤのトラブルで緊急ピット。総警 McLaren GTRがピットまでレースを引っ張ることになりました。
直線ではGT500で最速の車ですが、いかんせん燃費が悪い!それでもまだこの時代はなんとか
チャンスがあれば入賞圏を走れるレベルにはいましたが、2003年の規則大幅変更と3メーカーの
ワークス戦争化でこの手の車両は戦う力を失っていきました。2002年を1つの『時代の終わり』と考える
オールド ファンの方もそれなりにいらっしゃるんじゃないかと思います。
ちなみに、毎年のように性能を下げられる運命のNSXですが、この年は
『インテークの高さはルーフの高さまで』という規則が増えて空気の取入れがしにくくなりました。
でも2002年の途中にベース車両をNSX-Rに変更したことをきっかけに、俗に『チョンマゲ』と言われる
インテークが復活することになります。あれNSX-Rのオプションか何かで設定があったんですかね?
ベース車両に存在しているものなら仕方ない(´・ω・`)
auセルモスープラはこれでトップになったものの、後方から予選で沈んだNSX軍団が追い上げてきて、
ロックタイト無限NSXにとうとう抜かれ、立て続けにさらに2台のNSXにも抜かれました。
ブレーキとオーバーステアで苦しかったらしいauスープラ、2位に落ちた段階で、
「だったら2位よりはウエイトが増えない4位がいいや」と、もうその後は特に抵抗なくわざと落ちた感じが
ありましたが、この後まさかの大混乱。
Mobil1 NSXがTAKATA童夢NSXに当ててしまって3位に繰り上がると、ロックタイトNSXは燃料不足で
緊急のピットイン。3位なら「もう1個下げる?」と考えたいところですが、考える間もなく2位になり、
しかもトップに立ったMobil1 NSXにはピット作業違反の疑い。結局auは2位で走り切ることに(´・ω・`)
故意の順位操作ができないほどあれよあれよと状況が変化した珍しいレースでしたが、
結果的に選手権に大きく影響を与えたのは間違いないレースでした。
そんなすっ飛ばされたTAKATA童夢のドライバーはブノワ トレルイエ。放送では触れてもらえてませんでしたが
途中から右側のミラーがたぶん接触で潰れてよそを向いてしまい全く役に立たなくなってましたw
それはともかく、トレルイエがここにいたことは私も知りませんでした。
加藤 寛規が日程重複で走れない代役として抜擢されたわけですが、結局この後シーズンを最後まで
このチームで戦ったあと、翌2002年途中・引退する星野 一義の代役としてカルソニックスカイラインの
シートを獲得し、その後の活躍はご存知の通り。
当時フランス人ドライバーが複数いた背景には、エリック コマスがマネージメント会社をやっていて、
継続的にコマス経由で人材の交流があったことが要因だったと記憶しています。
ドライバーとしては、あのフロントが重いスカイラインを振り回して2年連続チャンピオンを獲得、
2001年はそれでタイヤを潰してるコマスですが、マネージメントの側でもJGTCに大きく貢献していました。
ロマン デュマもコマスの会社経由だと当時の記事に書いてあります。
どのレースでもわりと多いケースですが、当時GT300はまだまだジェントルマンのドライバーも
多い時代でしたし、車両の信頼性も今ほど高くないので、黄旗が振られることは多々ありました。
GT500は当然黄旗ではGT300も抜けませんし、それが下位の車ともなると、コーナー1つ引っかかると
それだけで2~3秒失うケースもあり、これが急に追いついたりする要因の1つでした。
放送ではこれもあまり拾ってもらえないので、実際は黄旗で抜けないだけなのに
「おっとまた300に手間取りました」みたいな実況解説が多くて、今見ると結構「ああ、違うのに!」ってなりますw
一方で、当時のピットからの情報量は、今の中継より遥かに多くて情報が豊富なので、これは
今の中継にもっと取り入れてほしい事柄かなと思いますね。J SPORTSの放送席は知らないけど、
後で放送するテレビ東京のGT+の放送陣では知ってる、みたいなことも割と多いので、この辺は変に
独自性を取り合いせずに一緒に情報上げてもらいたいなといつも思います。
auセルモスープラのチャンピオンへ向けて、そしてこの車両規定最後の2002年へ、まだまだ
楽しみは続きます。