心意気の光景
明治生まれの或るおばあちゃんは、ご主人の柩へ最期の杭が打たれる寸前に、「待ってください」と足袋のまま庭に駆け降り、一輪の深紅の椿を手折り、夫に手向けられたそうです。椿一輪には、ご主人の愛情へのお礼の気持ちが込められていて、「心だけ、あの世へおともさせてください」と、願をかけた女心が伝わります。もう一人の明治生まれのおばあちゃんの、ご主人への最期のことばは、「抱いて」…ということばだったそうです。おじいちゃんはおばあちゃんの病気が治りますように、大好きなお酒は絶てない代わりに、葱を絶っていらっしゃったそうで、そんな正直者のおじいちゃんに、おばあちゃんは惚れぬいた人生だったのでしょう。もうこれで人生がストップモーションで終わってもいい、そんな明治生まれのおばあちゃんたちの心意気を、昭和生まれの私はうらやましいと思います。
別れの光景はシナリオのなかではたくさん工夫されていますが、果たして光景にふさわしい心意気はどこへいったのでしょう? 女性が社会進出して社会のために個性を役立て、一方では男女のあり方への理知的な意見が交わされ、別れたいとなれば弁護士のもとへ駆け込んで、それは世の中が進歩したからこそであり、明治生まれのおばあちゃんたちは男社会ゆえに生じる理不尽さに幾度泪を流したことでしょう。けれども世の中で合理性が優先される毎に、欧米に習えとばかりに女性の自立心は成長したものの、日本の女だけが本来持っていた愛への心意気は褪せていったのかも知れません。
或る若者は「取り敢えず」が口癖です。彼のおばあちゃんは「取り敢えずと云うのはやめなさい!」と叱られたそうです。取り敢えず生きて、取り敢えず恋をして失恋して、あげくには取り敢えず人を殺して…「取り敢えず」の発想から、心意気の光景は生まれるでしょうか?