昨年の春、名古屋へ引っ越してきて、一番印象深かったのは、広くてスカッと青い
空と、道路の両側にずらっと並んだ街路樹でした。
名古屋の空が広いくて青いとは、奇異な印象を受ける方もみえるかもしれません。
確かに博多の空も、いえ博多のほうが、青い日はいっそう深い青をして、空はもっと
広かったかもしれません。
けれど息子のアパートは奥まったところにあって、北向きで、ベランダは狭く、そこ
から見える空はとても狭かったのです。外へ出ても、大陸から飛来するもののせい
か、遠くがなんとなく霞んでいる日が多かったように思いますし、また頭上を、飛
行機の大きな機体が轟音とともにひっきりなしに通過して、なんとなく閉塞感があ
りました。もっとも、一番の原因は、私の心が、打ちひしがれていたためかもしれ
ませんけれど。
名古屋の、南向きの広いベランダから眺めた空は、抜けるように青々として、どこま
でも遠く、のびのびと広がっているように感じられました。
その青い空をバックに、ずらりと並んだ街路樹を見上げて、私の名古屋自転車生活
は始まりました。
初めは何の変哲もない樹のようでした。それが、そのうちに、真っ白な小花をびっし
りとつけて、その細かい花びらが、春風にさあっと散る様子は桜吹雪にも劣らず、思
わず立ち止まって見惚れてしまいました。
初めて見たその樹は、調べてみると、「ヒトツバタゴ」(通称「なんじゃもんじゃの
木」)というのでした。「なんじゃもんじゃ」 というのは、誰がつけた呼び名か愛
嬌がありますし、「ヒトツバタゴ」というのも、いったいどこで切ればいいのか、
「ヒトツ・バタゴ」か?「ヒトツバ・タゴ」か? と考えてしまって面白いのでした。
そんなヒトツバタゴの花の下を、自転車でさあっと走り抜けると、何とも言えないい
い気分になって、まだ重いものの抜けきらない心が、ふわっと軽くなったものです。
ところが、・・・
その愛すべきヒトツバタゴが・・・今はもう2~3本しか残っていません。
・・・悲しい。
大きくなりすぎたのでしょうか? そうも見えなかったのですが、秋から撤去作業が
始まり、だんだん切られて、今はもう電柱が立っているばかり。殺風景この上ない姿
です。今は歩道を剥がして舗装工事中ですが、それが終わったら、また新しい街路
樹の苗を植えてくれるのでしょうか? もし植えられるなら、やっぱりヒトツバタゴ
がいいなと、私は思っています。その木が成長してみごとな花を咲かせる頃には、仮
住まいの私はもう、ここにはいないでしょうけれど。
街路樹というのは電柱と同じ線上に、つまり電線の真下に植えられているので、樹と
しての寿命を終える前に切られる運命にあるのでしょうか? それを思うと悲しい気
持ちになります。あんなに美しく、あんなに生き生きしていたのに・・・。あの姿を
写真に収めておけばよかったと、今になって後悔している私です。
それがどんなに美しかったか、関心を持たれた方は、「街路樹ヒトツバタゴ」で検索
してみてください。
今年の春は淋しいだろうな。
人間はもちろん、樹木のようにもの言わず、何もしないものでも、存在というのは、
ただそこに存在しているだけで、誰かの何かになっているものだ。それが失われた
時、ようやくそのことに気づくのだと、そんなことを思ってみるこの頃です。
空と、道路の両側にずらっと並んだ街路樹でした。
名古屋の空が広いくて青いとは、奇異な印象を受ける方もみえるかもしれません。
確かに博多の空も、いえ博多のほうが、青い日はいっそう深い青をして、空はもっと
広かったかもしれません。
けれど息子のアパートは奥まったところにあって、北向きで、ベランダは狭く、そこ
から見える空はとても狭かったのです。外へ出ても、大陸から飛来するもののせい
か、遠くがなんとなく霞んでいる日が多かったように思いますし、また頭上を、飛
行機の大きな機体が轟音とともにひっきりなしに通過して、なんとなく閉塞感があ
りました。もっとも、一番の原因は、私の心が、打ちひしがれていたためかもしれ
ませんけれど。
名古屋の、南向きの広いベランダから眺めた空は、抜けるように青々として、どこま
でも遠く、のびのびと広がっているように感じられました。
その青い空をバックに、ずらりと並んだ街路樹を見上げて、私の名古屋自転車生活
は始まりました。
初めは何の変哲もない樹のようでした。それが、そのうちに、真っ白な小花をびっし
りとつけて、その細かい花びらが、春風にさあっと散る様子は桜吹雪にも劣らず、思
わず立ち止まって見惚れてしまいました。
初めて見たその樹は、調べてみると、「ヒトツバタゴ」(通称「なんじゃもんじゃの
木」)というのでした。「なんじゃもんじゃ」 というのは、誰がつけた呼び名か愛
嬌がありますし、「ヒトツバタゴ」というのも、いったいどこで切ればいいのか、
「ヒトツ・バタゴ」か?「ヒトツバ・タゴ」か? と考えてしまって面白いのでした。
そんなヒトツバタゴの花の下を、自転車でさあっと走り抜けると、何とも言えないい
い気分になって、まだ重いものの抜けきらない心が、ふわっと軽くなったものです。
ところが、・・・
その愛すべきヒトツバタゴが・・・今はもう2~3本しか残っていません。
・・・悲しい。
大きくなりすぎたのでしょうか? そうも見えなかったのですが、秋から撤去作業が
始まり、だんだん切られて、今はもう電柱が立っているばかり。殺風景この上ない姿
です。今は歩道を剥がして舗装工事中ですが、それが終わったら、また新しい街路
樹の苗を植えてくれるのでしょうか? もし植えられるなら、やっぱりヒトツバタゴ
がいいなと、私は思っています。その木が成長してみごとな花を咲かせる頃には、仮
住まいの私はもう、ここにはいないでしょうけれど。
街路樹というのは電柱と同じ線上に、つまり電線の真下に植えられているので、樹と
しての寿命を終える前に切られる運命にあるのでしょうか? それを思うと悲しい気
持ちになります。あんなに美しく、あんなに生き生きしていたのに・・・。あの姿を
写真に収めておけばよかったと、今になって後悔している私です。
それがどんなに美しかったか、関心を持たれた方は、「街路樹ヒトツバタゴ」で検索
してみてください。
今年の春は淋しいだろうな。
人間はもちろん、樹木のようにもの言わず、何もしないものでも、存在というのは、
ただそこに存在しているだけで、誰かの何かになっているものだ。それが失われた
時、ようやくそのことに気づくのだと、そんなことを思ってみるこの頃です。