先日、せっかく書き上げた記事が消えてしまったことで意欲を無くしていましたが、書き始めた文章は書き終わらなくてはいけません。 気を取り直してやることにしましょう。
ファンタジーにおけるリアル
文学という芸術の世界にもリアルは必要です。
近頃人気の小説は、どうもファンタジー要素の強いものが多いようです。
・・・・平凡より非凡、現実より非現実、常識より非常識、実相より幻想、地味より壮大、平穏より刺激・・・・
どういう傾向のものが流行るかは時流というものもあり、それはそれでいいわけです
が、しかし、ファンタジーであってもやはり、その世界におけるリアルというものはあります。
もしその世界に存在しているとすれば、いかにもそのようであって、そう考え、そう言動するであろうと、読者を納得させるだけのその世界のリアリティがなければなりません。
すると読者はそれが本当のことであるかのように錯覚し、小説の世界にすっかり引き込まれて、登場人物とともにその世界を二次体験することになるのです。
ですからファンタジーの中にもリアルは大切な要素としてあるわけです。
ただ、ファンタジーの中で展開されるリアルは、この世界におけるリアルではありません。
そのことは、どんなに感動して小説世界に酔わされた読者であっても、頭の隅には必ずあるはずです。 ですから、
(あの小説のA男のように、僕もこれからは勇気を持って生きよう)
という気持ちにさせられたとしても、
(その勇気がこの現実世界でも通用するかどうか? 現実はそんなに単純ではないな)
という気持ちが、心のどこかに必ずあるように思います。
ノンフィクション
ファンタジーの対極には、この世界のリアルそのものでできているノンフィクションという作品があります。
ちょっと待て。 ノンフィクションは小説ではない。 とおっしゃる方もきっとあるでしょう。そうかもしれません。
そうかもしれないと言うのは、私にはちょっと 「小説ではない」 と言い切るには躊躇いがあるからです。
書かれている事柄はノンフィクションであっても、それは作者が選択的に拾い上げた事柄であり、作者によって意図的に構成されることで浮き彫りにされてくる意図的現実であって、混沌の現実そのものとは違います。
これはテレビのドキュメント番組やドキュメント映画にも通じるものです。
表現媒体が映像と文章という違いがあるだけで、その現実の選択・構成如何によって、描き出される世界も感動も大きく違ってきます。
優れたノンフィクション文学は、小説と呼べるかどうかは別として (可能性としてはありかもしれないという気がしていますが、未だ釈然としないものがあり、断言は避けておきますが)、現実という材料と文章の芸を駆使した立派な文学作品 (芸術) であると、私は確信しています。
そして、優れたノンフィクション作品が人の心を打つ力は、ファンタジーの比ではないとも思っています。
なぜなら、ノンフィクション作品のリアルは自分の存在する世界そのもののリアルだからです。
もっとも、ファンタジーとノンフィクションはもともと質が違うのですから、当然感動の質も違うわけで、単純に感動の強さ深さで両者を語るのはナンセンスなことではありますが。
ファンタジーとノンフィクションの間
では、ファンタジーとノンフィクションの間にある作品はどうでしょうか?
ここにはリアルの盛り込み方によって、いろいろな文学作品があるように思います。
一番ノンフィクションに近いのは、ノンフィクション的小説。
例えば、山崎豊子さんの作品群です。(「沈まぬ太陽」は面白かったぁ)
それから、名前は忘れましたが、中国人の作品で 「ワイルドスワン」 (これは小説に入れられるかどうか微妙ですが面白かった!) など。現実を材料にした圧倒的パワーのある作品でした。
次には私小説と呼ばれる作品。 作者自身の日常を描いたものです。
え? ノンフィクション的小説や私小説は、ノンフィクションとどう違うのかって?
嘘 (フィクション) を書かないのがノンフィクション。 嘘 (フィクション) が加わっているのが小説。
私はそう解釈しています。
個人の日常というものは、いくら事実を選択的に拾ったとしても、それだけで小説になりうるほどうまくできてはいません。 一つの纏まった小説世界を描き出すためには、必ずフィクションが加わらざるを得ないはずだと思います。
まったく日常の事実そのものだけを時系列的に書いたとしたら、読むに耐えないものになるでしょう。
ですから、私小説はノンフィクションに近いけれども、フィクションだということです。
三番目は歴史小説でしょうか。
かなりフィクションによって補われはするものの、史実というリアルの上にある小説です。
そして第四が、前記事のたくきさんのコメントにあったように、私が書こうとしている小説です。
つまり、現実に有り得ることがらだけで構成されたフィクションの世界です。
この種の小説は今ではかなり読者数が減ったように思いますが、明治以来の小説の主流で、一部の小説好きには根強い人気がある (はずだ) と私は思っています。
こういう小説においては、読者は自分自身の存在する世界の延長線上にあるものとして小説世界を読むことができます。 そして、そこが大事なところです。
読者は読むことで自分自身の現実から一歩出て、他人の現実の中に登場人物とともに生きてみることができるわけです。
そしてそれが、読者の明日へ、どのような形であれ現実的につながっていくと私は信じています。
ですからそこでのリアリティはノンフィクションに近いほどのものがいいと、私は思っていました。
さて、そこで前記事とのつながりです。
もうお分かりでしょうが、「芸術とリアルは相性が悪いのだ」 という、「蝉の絵事件」から生まれた私の考えは、その後すっかり変わりました。
けれど、世間ではどうなのでしょうか?
はい。 長くなりましたので、本日はここまでといたします。
