午前中の書斎では電話応対で思うようにはかどらない。


そのモヤモヤを吹っ切ろうと読書。


バルコニーの木々の間から樹海が広がる。


心地よい風が吹き、藤椅子まで緑に染まる。


「死に方のコツ」中々興味深く、この本に出会ったことに感謝しつつ読み進める。


………生き物にとって、死は当たり前、自然な流れである。


それを怖がることのほうが、余程不自然ではないか。


もし、今ここで医者から「あなたはガンで、余命は六ヶ月です」


と宣告されたとしたら?


あなたが死を受容するまでには大変な時間がかかるだろう。


でも、今のうちに死を納得して受け入れておけば、


「死にたくない」などとグズグズ時間を無駄にすることもなく、


死ぬまでの時間を十分に楽しむことができる。


きっと、最後の最後まで前向きに生きることができるはずだ。


………処方箋は゛笑い゛



エピソード、鮫に食われたイギリス人の話


船から落ちて鮫に腕を食いちぎられた男に、ある人が呼びかけた。


「おーい。だいじょうぶかぁ」すると彼はウインクをして、


「人生なんてこんなもんさ」


そして、鮫に飲み込まれて死んだという。


死ぬのはワクワクする冒険―――死ぬのだって、一度だけの大切な経験。


それならむやみに恐怖心を募らせることもあるまい。


「いよいよ死ぬかと思うとドキドキしちゃう、初めてのことって面白い」


怖い理由(死がわからない)


――――死んだあと自分の心や意識が行く場所を自分で決めてしまうことだ。


できることなら今直ぐ。


人間次に行くところがわかると安心して死ねると思う。 と著者は言う。




バルコニーで読書していた私は思わず、夕暮れる淡いブルーの空を見上げ、


父母や懐かしい人々のいるふるさと、天国へ行くと決める。





SCan風の旅-画像0007.jpg

横浜開港150周年、最近テレビでも横浜の歴史がよく紹介される。

横浜の友より「崎陽軒のしゅうまい」が届く。

嬉しい便りは元気な゛あかし゛。

一年程前旅した折に横浜中華街を抜け、

山下公園のベンチで大きな肉まんを頬張りながら笑い転げた。

今にも降りそうな空模様と潮風を思い出す。

初めての山下公園は20才の頃のひとり旅だった。



講師に惹き付けられたのは質疑応答の時だ。

広い知識と心でユーモアたっぷりに、

たどたどしい日本語で(アメリカ人)打っては響く妙味ある回答をされるのだ。


・イエスはいつ神になったのか? ヨハネは復活の際と……

・「救い」は「完成」すること。

・イエスは「神の国は近付いた。悔い改めよ」


でも、終末も来ていないが、長いスパンで、この言葉から救いを受けている。

更に講師は説く、既に終末は来てるし、神の国も来てる。

神があるというところには神の国がある。

終末が来てると思うところには終末がある。


・西方教会(神の恵みには広さがある) 東方教会(その精神と東方の仏教は近い)

が日本では中々広がらないのは何故か?

・講師は最後に言う

神は全ての人を救う。


今日一日、自分から与えられなかった人達を救って下さい。

自分は無になるか、救われて天国に行くかわからない、

明日もし天国に行くことになったら、皆さんに天国から電話しますね。

締め括りは見事に笑いで閉じられた。 感謝



※キリスト教の終末論
キリスト教の終末論(英:eschatology )という語は、ギリシャ語の ta eschata(「最後の事:キリスト教では具体的に四終[死:審判:天国:地獄]を指す」)という言葉に由来し、イエス・キリスト の復活と最後の審判 への待望という事柄に関わる。キリスト教では、その目的が世の救済であるため、教義学では終末を歴史の目的として救済史 という言い方もされる。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より