シーボルトは1828年に日本追放になった後、

日本開国後、シーボルト親子は再来実を果たし

1850年以降、シーボルトの息子達が万国博覧会を通じて日本を紹介するなど、日本政府の外交政策に深く関わっていたことを知った。

 

日本の幕末から開国に向かう頃とフランス印象派時代がどう結びつくのかが気になり、調べてわかったこと

 

シーボルトの次男ハインリヒと9代目市川團十郎が考古学の研究仲間だったというのが興味深く、モネの作品に描かれている着物は江戸時代の歌舞伎役者の衣裳の可能性もあるのかな?借金の形に質に出すことでもあれば流れたこともあるかなと、想像してみたり・・

 

1867年パリ万国博覧会

 

 

シーボルトの次男ハインリヒの

結婚相手の岩本はなについて

 

シーボルトの次男(岩本花の夫)

 

昨日記事にしたブログで、シーボルトについて触れて、1823年に長崎にやってきたドイツ人シーボルトについては、社会科で学んだ程度に知っていた。そして、楽器店で仕事をしていた時に、日本に最初にピアノを持ち込んだ人であることも知った。

 

シーボルトは日本で楠本たきと出逢い、イネという娘が誕生したというのは知られた話だ。1828年娘イネが2歳の時にシーボルトは日本地図や日本人に関する多くの資料を持ち出したことでスパイ容疑がかかり国外追放となる。

 

17年後の1845年にシーボルトは、ドイツ人女性と結婚して三男二女をもうけた。

 

1854年日本は開国。

1858年日蘭修好通商条約が結ばれると

1859年再び、長男アレクサンダーを伴い

     シーボルトは再来日を果たした。

1862年アレクサンダーを残して本国に帰国。

1866年風邪をこじらせて肺炎で死去。

 

シーボルトは1858年再来日の際には、息子アレクサンダーに、日本の異母姉楠本イネや孫高子を紹介している。長男アレクサンダーは、宇和島藩士や(高子の夫)三瀬諸淵(もろぶち)から日本語教育を受けた。

 

1867年シーボルトの息子アレクサンダーは、日本語や文化を学ぶなどした後、幕府、薩摩藩、佐賀藩の派遣団らと一緒にパリ万国博覧会の通訳として帯同する。

 

1869年アレクサンダーは再来日する際に、

弟ハインリッヒを伴った。

 

1873年日本はウィーン万国博覧会に公式参加を決定しハインリヒは出品選定に加わり、同万博の通訳として帯同した。

シーボルトと次男ハインリヒが日本で収集した資料数万点が欧州各地で散らばりジャポニズムブームの起点となった。

 

またハインリヒは、9代目市川團十郎とは考古学仲間で、大森貝塚をはじめ多くの遺跡を発掘しており、考古学という分野を日本に根付かせた。

 

 

ハインリヒは、日本橋の商家の娘岩本花と結婚して二男一女をもうけた。

 

新婚当時は異母姉楠本イネも同居して、妻はなの出産に立ち会い、一人目の赤ん坊をとりあげたが生後4か月で亡くなった。

 

次男オットーは、東京美術学校に進学し日本画家を目指したが1902年25歳で病死。

 

岩本はなは福沢諭吉の娘に踊りを教えていたことがあった。一女の蓮は、母親のはなが芸事に優れていたのに習い、長唄や琴などを学び師範になった。

 

連(れん)は1897年国文学者の石川氏のもとに嫁ぎ、二男一女をもうけた。連の長女は関口家に嫁ぐ。

 

1896年ハインリヒは体調不良により家族でウィーンに帰国する事を望んだが、妻のはなが子供らと共に日本に残ることを望み離婚。

 

1902年 息子オットー25歳で死去

1898年ハインリヒチロル地方で再婚

1908年ハインリヒ病死