静物 薔薇とアネモネのある日本の花瓶 1890年

 

おいらん 1887年

 

 

「バラとアネモネのある日本の花瓶」1890年作

「おいらん」 1887年作

 

1890年は明治23年。

絵画を見ていて、この時代の日本の花瓶をゴッホはどうやって手に入れたのかが気になった。

 

この印象派時代のフランスでは、東洋の模様や絵画、陶器類、骨とう品などが多く流れていたようで、金持ち達のあいだに収集をする愛好家がいた。

 

ゴッホが日本の芸術品を所持していたわけではなく、知り合いから借りて描いていたんだろうか? この時代に、どのようにして印象派画家と日本文化が結びついたのかに興味を持った。

 

そういえば、明治終り頃から大正期に入ると日本の若い芸術家達がフランスのパリに留学して絵画などを学ぶのが流行った。

 

当時のフランスでは、セレブとそうでない人とでは住む地区が違い、日本で裕福な家庭に生まれて留学した若者でも、パリの社交的な金持ち達の住むような地区には入れず、どちらかといえば貧しい人の住む地区で留学生活を送っていた。そして、日本人や東洋人のことは、黄色いサルがやってきたと差別をされていた、というのを本で読んだことがある。

 

フランスでは日本文化に関心が高かったと言われるわりに、人種差別があったと思う。

 

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江戸末期にさかのぼる。

日本は鎖国時代ではあったけれども、日本海側では北前船が活発に国内輸送手段として使われていた。

 

嵐に遭うと難波し流されてロシアに流れつき、だ捕されて拘束されたり、運が良ければ海外船舶に救助されるなどしてハワイに辿りつくことも度々あった。

 

その機会に海外の農業、工業や文化を視察し学び、日本にその技術を持ち帰るなどして海外と情報交換をするなどしていた。

 

私の記憶違いかもしれないけれど、、、

加賀藩が北前船で陶器類などを積んで行商していたような話を何かで聞いた事がある。オランダなどの国を通じてヨーロッパ全土に日本の美術品や陶器類などが流れたのかな?という気がする。

 

それらが時間をかけてフランスの金持ちの間に辿りついたのかな?