日清戦争について、東春日井群に暮らす人々の政府との関わり

どのような手段で戦地に向かって戦い、再び、帰ってきたか

その様子が記録に残っている。

昔の文章で書かれてあるので、私達にも理解できるよう要約してみた。



東春日井群誌より

※1894年(明治27年)、朝鮮東学党(=東学)の蜂起するにあたり、

ここに始めて日清交戦の端緒を醸成し、以後談判の進行は

ついに妥協を缺(か)き、同年8月1日をもって宣戦の詔勅煥発せられ、

※第3師団もまた出兵を命ぜられ、同年8月4日充員下令あり、

当時、我が第3師団は総て第一軍に編成せられ、

8月29日名古屋駅より出征の爲め、鉄道輸送をもって広島に向かう、

これより師団は海路朝鮮仁川港に上陸し、京城に向かい、
一部は元山枝隊に編入せられ、元山津に上陸し、平壌、義州、大東溝、
安東縣、岫岩、柝木城、海城、沙河に勇戦奮闘至るところに偉功を奏し
1895年(翌28年)5月11日をもって媾和成立し、日清両国の平和克復を見、
同20日歓呼声裡に凱旋の途に上り、7月2日までに屯営に帰着するを得たり。


日清戦争の発端となった事件
1894年(明治27年)朝鮮東学の蜂起とは、朝鮮で起きた内乱の

甲午農民戦争 (こうごのうみんせんそう)をいう。

この内乱に東学の信者が関与していたことから東学党の乱とも呼ばれている。


日清戦争勃発

この戦争処理をめぐり、日本と清国(中国とモンゴルの統一王朝)の対立が

激化して日清戦争に発展した。


第3師団 とは大日本帝国陸軍の師団の1つである。

明治6年、台湾出兵時に名古屋方面の出身者で構成され

設置された名古屋鎮台。



明治27年8月1日、明治天皇が宣戦の詔勅を煥発(宣誓)をしたので

その3日後の8月4日に兵士の招集令が下された。

名古屋第3師団は第1軍に編成されて8月29日名古屋駅から

鉄道輸送で広島に向かった。


広島から船で朝鮮仁川港に上陸して京城に向かい、

陸軍中尉野津道貫 が統率の下に第5師団と第3師団の一部を加え

四方より包囲攻撃する作戦に出て、陸軍大佐佐藤正 の元山支隊は

城の西北方より攻め入った。



平壌陥落後、義州、大東溝、安東縣、岫岩、柝木城、海城、沙河に

勇戦奮闘至るところ戦勝した。

1985年4月17日に山口県下関市春帆楼(割烹旅館)にて

日清講和条約(下関条約)は調印。

同年(明治28年)5月11日をもって公布された。

同20日に歓喜の声をあげて凱旋し7月2日迄に兵営に帰途に着く。


平壌での日本軍戦死者は180名。


東春日井群における明治27年日清戦争での戦没者は17名
戦没者の多くがマラリア、赤痢、腸チフス、コレラなどが原因の戦病死である。
この戦争より戦死者には勲8等の位勲功が授与されるようになった。



長江長太郎 鷹来村
小川利三郎 鷹来村
志村勝太郎 小牧町
加藤竹次郎 小牧町
塚原庸    小牧町
長井政五郎 篠岡村
落合鶴吉   篠岡村
波多野重太郎 篠岡村
宮地慶次郎 篠岡村
安藤定次郎 坂下村
山田栄太郎 篠木村
柴山鉄次郎 篠木村
加藤庄次郎 志段味村
青山桑太郎 旭村
梶田袴太郎 水野村
酒井角次郎 瀬戸町
森本竹次郎 瀬戸町