慈悲とは、仏教用語で、他の生命に対して楽を与え、苦しみを取り除くこと(抜苦与楽)を望む心の働きをいう。一般的な日本語としては、目下の相手に対する「あわれみ、憐憫、慈しみ」(mercy) の気持ちを表現する場合に用いられる。(出典 Wikipedia)

書かれている通り、慈悲とは他の生命に対して使う言葉である。私たちは他者に慈悲を与えることは出来ているが、不器用なことに自分に慈悲を与えることが苦手である。
社会的困難なイベントに遭遇した時、人は恥の感情を抱き続けることになる。恥は一般の人にとってembarrassの解釈で捉えられることが多く、「お腹がなってしまった…恥ずかしい」などのちょっとした心の揺れ動きである。
しかし、ここで考える恥というのはshameの方。「何て俺はダメなやつなんだ」「俺は価値のない人間だ」「俺は愛される価値のない人間だ」と自分の存在を恥じてしまう恐ろしい感覚。
発表が上手くいかなかった、人前で恥をかいた経験は多くの人が味わっているのではないだろうか。そのひと時の失敗であればembarrassで済むが、度を過ぎるとshameになる。私たちはshameと出会った時、とても苦しい感覚を味わい、自己を蝕み続けていくのだ。そこで苦しみに抵抗するのが人間である。熱湯に触れたら手をスッと離すように、いわば自分の身を守るために条件反射的にその苦しみから抵抗したくなるものだ。
もしも、恥が本当に自分にとって脅威で苦しいものであるならば、条件反射で抵抗するだろう。
しかし、 不思議なことに恥に対して条件反射は起こらない人間もいる。
恥=人間にとっての脅威
であれば条件反射か起こり抵抗するはずなのに、そうならない人がいる事実。さて、その人間が狂っているのか。サイコパスなだけなのか。いや、そうではない。恥は本来敵ではないのだ。

恥は人間にとって脅威であるかもしれないが、感情である以上、人間が生き延びる上で必要不可欠な存在なのだ。
人間が生存する上で重要な感情が逆に脅威にもなってしまうとは何と恐ろしいものか。一種の裏切り行為であるかのようにも見えてしまう。
脅威と錯覚して条件反射的に抵抗してしまう恥という感情をどう乗り越えているのか。
「恥を脅威とみなさずに何も評価しないまま受け止め、上手に付き合う」
これが乗り越える方法なのだ。
起こってきた出来事に対して何も評価することなくありのままの状態でただ見つめる、マインドフルネスが出来ている人間こそが恥と上手く付き合える。

恥は生得的に備わった感情ではなく、自己評価から生じる二次的な感情でもあると言われているので、もしかしたら本当に必要のない恥もあるかもしれないが、それでも抵抗しないことは一つの大きなポイントになるだろう。

更に言うと、どうやら恥と愛情は切っても切り離せない関係にあるらしい。