シェイクスピアって、『普通』だな(笑)

芝居が大好きなネイティブ・東北人、三陸ホヤ子

ご縁あって、こちらのブログにちょっくらお邪魔させていただくことになりました

皆さん、お盆はふるさとへ帰省されましたか?
私は帰省できていません

なので(ってあんまり脈絡はないのですが…笑)、ふるさと・みちのくへの思いを馳せつつ(笑)、シェイクスピア・カンパニーの前回東京公演「破無礼(はむれ)」←ハムレット を観て思ったことを書こうと思います。
シェイクスピアの芝居は、「彼のリアルタイムでは、扱ってるテーマは崇高なものと言うよりは日常そのものだったんだ」とか、よく言われます。
でも私、シェイクスピア劇の公演を観て、そんなふうに思えたことってなかったんですよねえ。
「リチャード三世」や「マクベス」を観たら、王様(特別な人々)の話だって思ったし。
「夏の夜の夢」や「から騒ぎ」だって、喜劇だって言うけどなんだか難しい言葉出てくるし、やっぱり別世界…って思っていました。
ハムレットも、別の劇団のを観た時は、いつもそう思ってたのです。
でも前回の「破無礼」←東京公演は2006年9月 を観て
「あっ、シェイクスピアって、本当に普通なんだ・・・」
と思いました。
例えが変ですが、「渡る世間は鬼ばかり」を観ているみたいな感覚を覚えました(笑)。
ハムレットの、あの重い話の根源にあるのって、実は「渡る世間」の登場人物が感じてるのと同じような感情だったんじゃないのかしら。
誰もが日常で感じるチクチクする気持ち

もしかすると、自分の近所や家族にだってありえる話かもしれない…(レベルは違うと思うけど…笑)。
時代が変わっても、ところが変わっても、人間って愚かで悲しい生き物だなあ…と、心の底から思えたのかもしれません。
なぜそう思ったのかいろいろ考えてみたのですが、役者さんの好演に加え、やはり彼らの(そして私にとっての)お国言葉である「東北弁」の賜物ではないかと思います。
身にしみこんだ「東北弁」って、「意思疎通のための言葉」以上の力があるんですよね、きっと。
それが芝居全体のムードを作るというのかな。
全体に垂れ込める、重く湿っぽい空気感。ああ、東北の曇天、という感じです。
東北弁で語られるハムレットの言葉は、湿っぽくて、重たくて、決して爽やかではありませんでした。
カッコよくもありませんでした。
でも、ひねくれ高校生のような、子どもと大人の中間でねじくれているような、ハムレットの嫌な(笑)キャラを絶妙に表していました。
そしてそして、なんと言っても東北弁で狂気の台詞を語るオフィーリア。
ものすごく可憐で、本当にかわいそうでした

標準語の台詞の何倍も胸に来ました。宮沢賢治の「永訣の朝」の朗読を聴いてるみたいでした。
あの悲哀は、標準語では感じるそれの比ではないだろうなあ…。
2年前の東京公演を思い出すといろいろで出てきますが、それもこれも、東北弁の素晴らしい脚本を、それぞれの役者さんが「自分の言葉」として腹の底から表現していたから、ということに尽きるのでしょう。
こんなふうに思うのは、私がネイティブ・東北人だからですかねえ。
だからこそ、ネイティブ・東北人じゃない人の感想も、ぜひ聞いてみたいなあと思っています

次回作は喜劇。
え、温泉旅館

再演だそうですが、私は初演を観ていないので、どんな喜劇になるのか、見当もつきません

思いもかけない展開になったりして…

でもきっと、「うんうん、わかるわかる!」という実感が持てるものになるんじゃないかという予感がしますよ。
今からとても楽しみです。