スジャです。


自分では夢にも思わなかった他人の気持ちや考え方に気づかされることが、自分色がどんどん固まっていく大人になればなるほど多い気がします。大人になると「自分の考え方=常識」になってしまいますから。



私の体験に関して言えば、かつて会社を辞め、留学をし、帰国して職探しをしているときに、今思えば非常に恥ずかしい発言を元同僚にしてしまったことがあります。

「また会社に戻りたいな~、なんてたまに考えちゃう」


それに対し、いつもは本音を100%は見せてくれない同僚が珍しくハッキリとこう言いました。

「アナタが戻ってきてくれることは個人的には嬉しいけど、それって自分の都合で辞めて、残されて必死にアナタの穴埋めして痛い目にあった皆をすごく馬鹿にしている言葉だと思う。」


・・・非常に恥ずかしく、穴があったら入りたいという気持ちになりながらも、それを整然と言った彼女に今でも非常に感謝しております。

自分の言動に責任を持つ、などと良く言いますが、その言動を受け取った人たちがどう感じるかまでを配慮できるようになるために、他人の視野や考えをうまく吸収していきたいものです。



さて。

本の中で私にそんな体験をさせてくれたのは、太宰治の「たずねびと」という、彼にしては珍しい短編です。


ときおり、太宰治ブームが起きますが(起きそうになって終わるパターンが多いですが)、正直、小学校高学年で彼の作品を読みふけったせいで、思春期に物悲しぶって読む作家のイメージが勝手についてしまい、それ以来全く太宰作品には触れていないのですが、この短編だけは非常に素直な彼が出ているので、読み返さずとも思い出すことが非常に多いです。



ストーリーは簡単で、明らかに「乞食」状態の太宰一家。それを見て食べ物を恵んで去っていった女性に、一種のにくしみをこめながら「あの時は、たすかりました。あの時の乞食は、私です。」と言いたいのです、という作品。


食べ物をもらって、良かった良かったということにはならない。

・・・当時中学生1年生だった私もさすがにそこまで素直ではないのでよく分かります。


それにすがらざるを得なかったけど、やはりプライドというものがあるので素直に引き下がりたくない。

・・・太宰作品を読んできた人には分かる気がする思考方式です。


決してそういう態度は取らないで去ったけど、でも物をあげることでちょっと人を助けた気になってるのだろう。それに少しだけ腹が立つ。

・・・大分ひねくれていますが。


自分たちが唯一できる「ありがとう」も言わせないで去った彼女の行動が結果自分たちを貶めている。

・・・それも一理ある。



このような感じで、その行動に思いを馳せてしまう作品です。それが、他人の気持ちに配慮する訓練の1つになるような気がするということもあります。



既に太宰治は著作権が切れているので、ネットで探せばすぐにこの作品は見つかります。

お時間があるときにでも是非。

リンダです。

最近そんな期待も込めず購入したこの本。

久々に実に良い本を読ませて頂きましたよ。

大正から昭和初期にかけて、世界で最も名前を知られた巨大商店、鈴木商店の社長の物語です。

その時代、女が仕事をするという事すらほとんど認められなかったなか、夫亡き後、ただ、従業員のためだけに会社を続けようと決意した鈴木よね。
それは社長というより従業員という家族を守る母の決断であった。
小さな神戸の商店を、世界に名だたる大商社にまでした彼女の、女ならではの人の道、商売道が、玉岡かおる氏の瑞々しい文章とともに描かれております。
帝王学や自己啓発関連の本が売れまくっている昨今です。
しかし、大切なことって案外小学校の道徳で教わったような、こういう事かもしれない。と、思う。
人を信じる。任せる。それをさせた責任を持つ。騙さない。まじめに生きる。
鈴木よねの生き方はまさしく!
こうしたことって、泥臭く忘れられがちであるが、仕事においても、私生活においてもとても大切だったなぁ。と思い出させて頂きました。
その心がけが駄目だった丁稚を日本屈指の実業家へと成長させ、さらには会社を大きくなっていったのであろう。
何も残さぬは3流。金を残すは2流。人を残すは1流。
とは良く言ったもので、鈴木よねはまさしく1流の経営者だったのだなぁと思う。

鈴木商店はその後関東大震災の被害や戦争などの時代の渦に飲み込まれ、倒産してしまう。
しかし、この本の醍醐味はその後半戦にある。
経営が多角化し、政商と呼ばれるまでに成長した鈴木商店の崩壊。
逆境にも負けぬ社員たちの奔走。
双日、サッポロビール、帝人、日本製粉、神戸製鋼など今も残る鈴木の関連会社を残したのは、能力さえあればどんどん昇進し仕事を任された社風によって育てられた社員達の尽力によるものである。
不況の今、信じるだけで救われるというような宗教まがいの安っぽい啓発本読まないで、皆さん、この本読みましょう!

がんばれるよ!笑。

こちらが聞いた質問に対して答えてくれてはいるものの、何だか論点がずれていて、自分が欲しい答えが得られない。

でも、こんな疑問を一緒に考えてくれそうな人はこの人しかいなさそうだから、やはりまたとりあえず聞いておこう。

-橋本治は私にとってそんな存在だ。


毎度タイトルに惹かれて本を読むのだが、結局何を言いたいのかよく分からない。

表現も平易であるのに。タイトルを読んだときに期待した答えが得られない。

「書いてあることが分からない」のは、作家として致命傷だと思うのだが、どうしてだか、この人の作品は

何となく新作が出続けて、何となく話題になっている。


私はまたタイトルに惑わされて買ってしまうのだが、結局分からない。

でも、こんなことを、本で語る人は橋本治しかおらず、本を開くと彼独特の緩い雰囲気で満たされていて、

この空気感は誰にも真似できない。

そしてまた次の本を買ってしまう。


言うなれば、彼の本には、「数学を解けない同級生の気持ちが分からない秀才」の空気が溢れている。

私のここまでの文章を彼が読んだとしたら、「あれ以上に分かりやすい表現ってあるかなあ?」と

あっさり言いそうである。

出来ない人の気持ちが分からない。悩んでる人の気持ちが分からない。

それが橋本治。

新書に最も向いていないのに、新書を出し続けている橋本治。



しかし、この本はやっとなんとか理解できる幅があった。

上司が思いつきでものを言う理由が明確にあり、そんな理由だったのか、気がつかなかった、

振り返ってみれば、そのあたりの上司の気持ちを思いやらなかったところも自分にあるのだ、と

反省させられる部分も無くは無い。ただし、この本で語られている上司は、相当ダメな上司で

あることは確か、だが。


なぜこの本の橋本治の意見は理解できて、ほかはしっくり来なかったのか。

それは未だ分からない。

なので、また橋本治を読んでしまうだろう。


よく分からない橋本治のことを書いていたら、自分の文章も良く分からなくなってしまった!