◎ 潜在意識の作用

 

 

○ 自己審判観念

 

 

つづき

 

 

牧師プール・エフ・ホートン博士の「祈りは聞かれる」という実話は興味深いものがあります。氏はかつて一行とともにノルウェーを旅していた。一行中の婦人の一人が沼地の原野を探検中、ゴムの上靴(オーバーシュー)を片足落としてそれがどうしても見つからなかった。この旅行の目的地たるベルゲンに着くまでは、新しく上靴(オーバーシュー)を買い整えるということはできなかった。しかもこの沼地の探検は上靴(オーバーシュー)なしにはとうてい不可能であった。だからこの上靴をどうかして見つけだすか、旅程を変更するか、ほかに採るべき手段はなかったのである。

 

 

で、一行はこの失った靴を見いだすために手分けをして、もと来た道を引き返した。どこで落としたものであろうか。林のなか、山の側路、多分通ったであろうところの山間林間の道を数時間さがして歩いたけれども、その上靴は見つからなかった。ついに一行は断念してホテルに帰った。

 

 

ところが、その日の午後になってから、一行中のホートン博士の頭にひらめいたのは「なにゆえわたしはあの上靴を見つかりますようにと、神に対して、祈りを捧げなかったのだろう」ということだった。で、博士は祈った。祈りのうちに、祈りは聞かれたという確信が博士の胸にきたのでした。博士は一行をうながして、朝上陸した地点まで峡湾(フヨルド)を漕(こ)ぎ上った。そこで船を上がると博士はスタスタと一直線に歩み出した。と、そこに見よ!博士の眼の前に、失(な)くした上靴が転がっているではないか。そしてそこは不思議なことには、いくどもいくども祈りなしに血まなこになって探した地点であったのだったのです。

 

 

マサチューセッツ州の心霊研究家エリザベス・タウン女子もこれと同じような経験を書いているのである。ある日タウン女子たち一行四台の自転車は、市街からかなりへだたった郊外の坂道を縦列を作って馳せ下っていた。坂道は乾き切って灰のようになっていた。一行のうちの一台の自転車のチェーンの留(と)め鋲(びょう)がいつのまにか飛んだとみえてチェーンが外れた。すでにこの坂道を下りること四分の一マイル、チェーンが外れたときは丘にさしかかって速力がゆるやかになっていたので、乗り手は怪我もせずに無事におりることができた。

 

 

さてチェーンの留鋲(リベット)はどこで落ちて、どれだけ走ってから、チェーンが外れたかわからなかった。一行はいずれも今まで自転車で来た道を徒歩で引き返しつつ、血まなこになって留鋲(リベット)を探していた。灰色の砂深い坂道に灰色の留鋲(リベット)―たれもそれを見つける者がなかった。

 

 

 

その時エリザベス・タウン女子は「なにゆえ今まで神にそれを祈らなかったのであろう」と気がついた。彼女は祈った。「神よ、あなたは留鋲(リベット)がどこにあるかを知り給う。あなたは愛の法則で宇宙をお造りになりました。求めるものと求められるものと相会うのが愛の法則です。どうぞ神よ、わたしの眼とわたしの求める留鋲(リベット)とが相会いますように。」エリザベス・タウン女子がこういって祈っている間に、他の三人は留鋲(リベット)を丹念に探しながら大分遠ざかっていった。女子は神ににまかせて後からノロノロと歩いた。と、他の三人の者が今探して見いださなかったそのあとに、そこに灰色の砂の間から求めていた留鋲(リベット)が覗き出していたではないか。
 

 

 

これと同じような出来事で、鍵を落としてどうしても見つからなかったのが、神に祈ったところが、今まで、そこを探しても決してなかった同じ場所にポッカリとその鍵が載っていたという実談を、かつて、和歌山の『生長の家』誌友井内章二君が誌友会で話されたことがある。

 

 

 

また大阪の誌友北村強氏は一行数名と共に大和の竜門岳に登られたとき、頂上のあたりで一行が渇を覚えて水を探したがどうしても見つからなかった。そこで北村氏は心のうちで神に祈った。と、氏は急に自分だけが一行に分かれて、少し下へ下りて行きたくなった。と、「そこに水がある」という言葉がどこからともなく聞こえてきた。見れば草叢(くさむら)に隠れて、滴々と清水が湧き出しているではないか。ほんの少量それは滴々として湧き出しているので、眼のよい人でもほとんど発見しえないほどの分量であったが、それを近視三度という北村氏が神に導かれたればこそまず発見したのであった。

 

 

わたしは本稿の始めに、「今日展開する人間の運命」というものは過去のその人の念の集積の現実化として、すでに前日以前に決定しているという多数の事実をあげた。そしてそれに続いて今日の運命が今日の祈りによって改善されたと認むべき四つの実例をあげたのであります。(1)われわれの今日の運命はすでに決定している。(2)しかし今日の運命は今日の祈りによって改善される。この二つの一見相反するがごとき事実はいかに解釈すべきものであろうか。

 

 

 

どちらも正しい。われわれの「今日の運命」はすでにわれわれ自身の過去の念の自然的展開、自然的自叙作用、自然的自浄作用、として高まれる波が、平らかに復する自然の作用として決定しているのであります。それは眼には眼を報い、歯には歯を報いる峻厳にして仮借(かしゃく)なき「迷いの念の自壊法則」としてそうなるのであります。この「迷いの自壊法則」はそのように峻厳なものでありまして、因果は迷いの世界では破ることができない。

 

 

十の罪には十の苦しみ、五つの罪には五つの艱(なや)みがあってはじめて帳消しになるのであります。しかしながら、われわれが一たび神に祈りますときには神は光でありますから、光の前に闇の世界の法則は消え、その迷界の法則は超越されてしまうのであります。そこに十の罪にも必ず十の苦しみが要らない、二十の罪にも必ずしも二十の苦しみがいらない。心が完全に百パーセント神に向くか、八十パーセント神に向くかによって苦しみも全然不必要になるか、半分ですむか、いろいろに変わってくるのであります。

 

 

 

罪の自浄作用にまかしておいたなら、いく年も肉体的痛苦を受け、千金を医者に払って家産を蕩尽(とうじん)した後でないと治らないような病気でも、その半分の苦しみ、半分の費用、悩みで赦され救われることになる。

 

 

 

『生長の家』誌友で、神に祈り、神に結ばれて、病気その他いろいろの苦難が一それが当然であるべきはずのものよりもー非常に軽くされた実例が報告されて来るのもそのためであります。では誌友よ、運命の神癒治療(メタフイジカルヒーリング)をなすにはまず神に祈れ今日の運命はわれらにとってはすでに決定したものでありますが、神の前にはなお修正の余地のあるものであります。いわんやわれら自身にとっても未決定なるわれわれの将来の運命が、われわれの祈りによる神への結びつきによっていかに改善良化(かいぜんりょうか)されるかは論をまたないのであります。

 

 

 

そしてわれらの祈る対象たる神は、すべての闇を照らす光なる神、すべての罪を許し給う無限絶対の愛の神でなければなりません。生長の家の神様はそういう愛の神の一顕現としてお現(あら)われになったのであります。
 

 

 

昭和八年一月九日、東京目白の友の家会館で生長の家東京誌友会があった翌日、誌友陸軍科学研究所長久村種樹中将の令夫人きみ子女史は、次のような尊い体験を下落合の松本肇氏宅で発表せられた―― ある日女史はなにか紛失物をしたが、それがぜひ要るので、あちらのひきだし、こちらの戸棚と探して廻り、上の物を下へおろしたり、下の物を引き出したり、いろいろ苦心したが見つからない。

 

 

 

その時女史は始めて気がついた――「神想観で紛失物を探してみよう。」さて女史は静座「神想観」をすること十数分間、やおら起つと眼の前の戸棚の小襖を開いて見ると、はたして開いたすぐそこに「探し物」が載っかっていることが見いだされた。そこは先刻たびたび小襖を開いて探したところで、そこに紙袋があり、その紙袋をたびたびあちらへやり、こちらへやりして探したのに見つからなかったのに、神想観後は不思議にその紙袋の前に求むる「探し物」が載っていたのであった。心が調えばどんな探し物でも見つかるのである。


(生命の實相第四巻第四章愛の神による運命の修正P74前から11行目から掲載)

 

 

 

★ 先日定期券を落とし駅に行きましたら明日来てくださいと言われて行ったらありました。笑!日本は出てくるのですね!感謝!感謝です。その数ヶ月前に改札口入った所に定期入れが落ちており、誰も拾わないので私が拾って駅員さんに渡したら何か言ったかわかりませんが?こっちも急いで電車に乗りたいし、行こうとしたら名刺サイズの紙を渡されました!それには有難う御座います!と書いてありました!笑!いいアイデアですね!拾ったら拾って下さいました!有難いですね!日本万歳!笑!