過去記事より掲載しています

 

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◎ 私はこうして祈る

 

 

 

○  不眠症をいやすには

 

 

夜眠れないということは心の世界に敵を抱(いだ)いているからなのである。また、眠れないということに心をひっかけるからなのである。すなわち心界に敵がひそめば、不安、恐怖で心おののいて心平和ならずして眠れない結果をきたすのである。この場合、心を平和にならしめる方法ー祈りーがとられねばならないのである。赦しの祈りを捧げねばならない。

 

又、心を不眠にひっかけるということは、眠れない眠れないと心あせること、眠らなければ病気になるかも知れないという連想観念によって自分の心が自縛(ばく)されているからである。自由自在な、平和な心になれば、どこででも眠れるわけである。本来不眠はないのである。不眠で苦しむ姿は本来ないのである。

 

 

 

不眠で苦しむ時、次の如く念ぜよ。

 

 

「爾褥(なんじしとね)に横たわるとき、爾に何の恐れもなからん。

 

爾褥に横たわる時、爾の眠りはうまからん」(この聖書の聖句を数回繰返し念じてから)

 

 

「吾はこの神の言葉を信じ切って神にまったく委せ切って平和である。善ならざる出来事は何事も起り得ないのである。なぜなら神は善であり、神のいますところに、いかなる危険も災禍(わざわい)も存在し得ないからである。吾はいま何の不安も感じない。何故なら神の愛と智慧とが守っていて下さるからである。

 

吾は断じて恐怖や疑惑に陥らない。吾は吾が心の中に恐怖の観念の侵入することを許さない。吾が心は忌(いま)わしきものをけっして見ないのである。吾が心は信仰と平和とのみに全く注がれているのである。神がわれを守り給うているのに吾に何の恐怖があろうぞ。神はその天使をつかわして、覚めている時も眠っている時も吾を守護し給うているのである。

 

 

吾は吾が愛を神に注ぐ。されば神は吾を救い給うのである。吾は古き悩みをもってもはやわが心をくるしめない。吾はけっして自分自身を人や物事によって煩(わずら)わされしめないのである。吾は断じて神経を尖(とが)らしたりビクピクしたりはしないのである。

 

吾が光にして救いなる神よ、吾が心はあなたに注がる。それ故にわれには不安も苦しみもあり得ないのである。あり得ないが故に吾はけっしてピクつくこともなく神経を尖らすこともないのである。

 

“神は吾が生命の力にてあり給う。吾誰をか恐れんや。”吾はなにものをも恐れないのである。吾は平和にみちあふれている。神はわがたましいを癒したまうのである。“神よ吾は平和を神に委ねる。吾は平和をあなたにゆだねる。”それ故に吾は常に信頼と信仰とにつつまれて実に平和である。

 

わが心は終日平和であるが故に、夜もまた平静にして平和であるのである。吾は吾を見張りたまう神の愛と守護とに感謝いたします」

 

 

 

 

つづく

 

 

 

谷口雅春著 「生命の実相」