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- 神想観(瞑想)
◎ 私はこうして祈る
○光明思念を送る法
これはすでに前述してあるところであるが、大切なるゆえ、ここに再述する所以(ゆえん)である。
与えれば与えるほどふえるのが人生の法則である。
吾々は自己の幸福を思念するだけではたりないのである。ときとして自己目的の光明思念が目的を達しないのはそれは利己的要素がまじっているからで他に与える考えがないからである。だから吾々が毎日自分自身のために光明思念をするならぱ、また別の三十分を他の人のために光明思念をしてあげる必要があるのである。
それは人のために行ないつつあるかのようであるが、与えれば与えられるの法則にしたがってかえって自分の幸福と進歩とに貢献することになるのである。
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先ず人を癒(いや)すために光明思念する場合には、最初に、相手の住所氏名を心に唱(とな)えて、相手に対して呼びかけ心持になるのである。
そして、心の中で相手の額の上に手の掌(ひら)をかざしたと観念するのである。合掌して相手に対坐したキモチでもよい。それは遠くにいても同じである。相手の額に手をかざした光景を思い浮かべ、実際手をかざしている気持になればいいのである。そして精神を統ーして次の如く念ずるのである。
「神は吾をば、汝を癒し祝福せんがために使い給うのである。神吾が中に宿りたまい、神の意志をなさんとするところの吾が努力を神は祝福し給う。されば、われ汝の額の上に手を按ずるのは神が汝の額の上に手を按じ給うのである。神は今、神の生命と癒す力とを汝の脳髓細胞に注がんがための通路として吾を使い給うのである。
神の力は吾を媒介として、汝に流れ入り、汝に宿るところの神の生命力を目覚めしめ給うのである。そして汝の中に宿るところの神の智慧をして吾が汝に伝うところの真理の言葉を感受せしめ給うのである。神はいま吾を媒介として、汝の中に宿る心霊を目覚めしめ給うて、より高き、より純粋なる状態に汝の智慧を表現し給うのである。
神はいま汝の潜在意識を祝福し給いつつあるのである。されば汝の潜在意識には、神の心からくるよき印象ばかりを受けることができるのであって、悪しき迷える霊からの誤れる妄念を感受するということはないのである。
吾れ、汝の目の上に吾が手を按ず。(かく念じ、想念の世界で手を按ずればよいので、実際には手を按(お)く必要はない)神の力汝の目に流れ入るが故に、汝はすべての人々の中にただ善のみを見るのである。そして神の造り給いしすベてのものがことごとく完全に調和していることを見るのである。
吾、吾が手を汝の耳の上におく。神の霊、汝の耳に流れ入り給いて、汝の聴く力をいっそう完全にならしめ且(か)つ浄(きよ)め給うのである。されば、汝はよきことのみをきいて、悪しきことを決してきかないのである。汝の進歩と発達に必要なことのみをきくことができるのである。
吾、吾が手をなんじの肺臓の上におく。されば、なんじの肺臓は、その吸う息とともに神の祝福を吸い、神の祝福し給う空気と日光とを吸うのである。されば、なんじの肺臓を流れる血液は、神によって浄められ、生命を与えられ、かくてなんじの全身を健康ならしめるために全身に送られたのである。
吾、わが手を汝の胃の上におく。されば、神の全能の力汝の胃に流れ入り給いて、汝の胃の腑の消化吸收同化の働きを完全ならしめ給いて、地上における神の宮なる汝の肉体をいよいよますます健康ならしめる栄養分をおくり給うのである。
吾、神と共に汝の太陽神経叢(そう)を祝福する。神の霊太陽神経叢に流れ入りて、汝の肉体の各神経中枢の働きを、活撥ならしめ給うのである。
吾、神と共に汝の肉体を祝福する。すなわち、肝臓、大腸、小腸、腎臓、その他すベての器官を神の愛と神の生命とによって祝福するのである。されば汝の肉体のすベての内臓器官は神の造り給えるその聖なる目的を完全に果さんがために適当なる機能を行なうのである。
吾、汝の全身のすべての細胞を祝福する。而(しか)して心の目をもって、なんじの全身が生ける神の生命に満たされて光明燦然と輝いているのを見るのである。
汝の全身は神の生命と美と調和とに満たされて光明燦然と輝いているのを見るのである。われなんじを見るに、神の聖なる姿そのままに光明燦然たる光を放ち、どこにもー点の不完全の影すらもないのを見るのである。汝まことに神の造り給いしままの完全なる神のみ姿なのである。
われは今、汝とともに、キリストと等しき心境に高められて、いまより後つねにこの神の造り給いし世界を、イエス・キリストが見給いし如く完全なる相(すがた)において見るのである。
なぜなら神と神の子とはー体であるからである。なんじは世嗣ぎとして与えられたる神の子の当然受くべき権利を有し、毎日毎日それを具象化するのである。神は権威であり、力である。されば、神の子であるところのなんじも自分もともに権威であり力であるのである。
神はすべての病気を征服し、すべての貧しさを克服し、あらゆる制約をこえて自由であり給うのである。されば、われらも神の愛によりて、神とー体になることによりて、すベての病気を征服し、貧乏を克服し、あらゆる人生の行路に横たわるところの制約を超えるのである。
われらはわが前に横たわるものが、たといいかなるものであろうとも、それを神の与え給いし機会としてみるのである。神とともなる時、何事も不可能事なしということを知るが故に、一切の事物は神の力を実現せんための好機会となるのである」
つづく
谷口雅春 著 「私はこうして祈る」健康篇より