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- 神想観(瞑想)
(6) 神想観による癒しーメタフィジカル・ヒーリング
○ 病人のために祈るときの心構え
つづき
③ 完全健康なる実相を直視せよ
よごれ物を貰って来たら、こんどはこれを洗濯することである。
ひとたび、「彼の病気に憐愍の情を感じ、彼を可哀相だと思った以上は」彼の悩みは自己の中に摂取されたのであるから、「彼の病気は既にわが心の内にある」ーこれを浄める道はわが心の内を実相円満の想念によって浄めるほかはないのである。
吾々はどこまでも病いの実在を否定し、病気の醜(いや)しき形に同化するようなことがあってはならないのである。
思念を継続する場合に、病気のいろいろの症状を心に長時間念じたり、論議したりするのは害あって益なきことなのである。
他を思念してあげるに際して吾々が病気の状態を知る必要があるのは、掃除をする人が、どこがよごれているかを知る必要があるのと同じことであるが、いったん何処がよごれているかを知ることが出来れば、あとに其処へ綺麗な水を流しかければよいのと同じように、吾らは「綺麗な水」にも喩(たと)うべき、
「円満完全な実相の想念」をのみ思念しておればよいのである。これが光明思念によって病気または不幸を治癒せしめる根本原理と方法とであるのである
その時ラザロは立ちて歩み出したのである。(この事は悪人についても真理であって如何に彼悪人が存在するように見えようとも、徹底的に「彼は善人なり」と観ることが出来たときに彼は善人になってしまうのである。)
神が完全であり、一切の創造は完全であるから、如何に病いや病菌が存在するように見えても、そのような不完全なものの存在しないことを信じ、ただ完全な世界のみを見るのである。
それは病いをみとめて癒すのではなく、「病いなし、一切の悪なし」という「観念と信仰の浄水」をもって、自己に摂取したところの相手の不幸を浄めるのである。
外見は如何にともあれ、それが如何に醜い病いや黴菌(ばいきん)の姿をあらわしていようとも、その外見の奥にある真実在(実相)ー仏性、神性の完全さを見るのである。
それはまことに釈迦が悟りをひらいたときに「有情非情同時成道(いじようひじようどうじじょうどう)、山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくどしつかいじようぶつ)」と観じ得た如き「観」において、一切万物がすでに「成れる仏」であるところの実相を観るのである。
それはもう、精神治療であるとか、心霊治療であるとかいう如き 「治療」の一種ではないのである。それは一切諸仏現前三昧(ざんまい)である。万物の実相が神仏であることを如実に観、如実に礼するのである。
あらゆる事物の本体なるものを見出し、それの実相を拝み、一切事物の実相において和解するのである。
諸君は、人間が如実に諸仏であることを知り、その実相が、富み、且つ健康で、さらに凡ゆる幸福に充たされていることを知り、それを完全に観じなければならないのである。
だから神想観は、病気や病菌を相手としてそれを克服するのではないのである。
病気や病状や病原体やーそのような現象を見ないのである。それらを完全に超越するのである。だから、メタフィジカル・ヒーリングと言うことができるのである。メタというのは超越するという意味である。現象的なものを一切超越しなければならないのである。
つづく
谷口雅春著「生命の実相」