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- 神想観(座禅)
(3) 神想観による癒しーメタフィジカル・ヒーリング
つづき
○ 自己暗示から人格的祈りへー聖霊による癒し
人を真に癒すには、その人の心を癒すほかはないのである。
病気や不幸の背後には必ず、心の「迷い」または「間違い」というものがあるのであって、それを癒すことによってその誤まれる想念の反影としての病気または不幸が癒されるのである。
祈りが、人を健康にするには、その祈りの、言葉の力が潜在意識に印象されて、健康の自信を得るによるのであるが、聖霊にその祈りが感じて他動的に迷いの念を消滅せしめられることもあるので、かかる場合には、ほとんど瞬間的にその病気が消滅するのである。
すべての幸福と健康増進とは聖霊からくるのである。しかし、内に宿る聖霊の発現は、自然治癒のごとき緩慢な経過をとり、 それは合理的であり、奇蹟的な状態を呈することはないのであるが、それは乾電池に内在する電力が徐々に発現しつつ携帯用ラジオが作動するようなものであるが、巨大な聖霊の力が天降って来る場合には、空中の高圧電位が突如として巨大な落雷となってくるように、急激なショックによって、そこにある「迷い」が焼き尽されることになるのであります。
自己に宿る聖霊は謂わば、マイナスの電気のようなものであり、天降って来る聖霊はプラスの電気のようなものである。自己に宿る聖霊の目覚めなくて、巨大なる聖霊は天降っては来ないのである。
先ず自己の神聖を自覚することが必要である。
しかして後、普遍久遠(ふへんくおん)なる神に呼びかけるのである。そして個なる聖霊と普遍久遠なる聖霊と一体となるのである。
この点では、祈りは単なる自己暗示ではないのである。自己暗示は、潜在意識の作動方式によって効果をあらわすのであって、それは機械的であるが、自己に宿る聖霊と普遍久遠の聖霊との感合道交(かんごうどうこう)は、人格的なものである。
我々は「自力」によって「他力」を呼び、「他力」によって強められるのである。大いなる自己の性格の改善や、奇蹟的な重病の瞬間的治癒のごときは、「他力」によって強められるに非ずんば不可能なことである。
○ 神想観によって実相を観じた後では
もしあなたが、実相の完全さを観ずることによって自分の病気を、または他の人の病気を癒そうとお考えになるならば、その実相を観ずる神想観を行なう直前以外には決してその病気のことを語ったり思ったりしてはならないのである。
実相を観ずることによって病気が治る原理は、「観ることは創造(つく)ることである」「想うことは表現される」という哲学的真理である。
だから神想観の時に、せっかく「人間の完全な実相」を観じ想念しながら、すぐあとから、その「病気の仮相(すがた)」を観じ想念するならば、これは全く打消しになってしまうのである。
写真を撮影して、それを現像し出すまでには、他の光線に照らしてはならないのである。それと同じく、実相の完全な相(すがた)を観じて、心にそれを印象したならば、それが現象界にあらわれるまでに、他の不完全な相を印象せぬようにすることが必要である。
すなわち「すでに自分は神の子で健康である」と神想観中に念じたならばその神想観を終ってからでも「自分はやはり病気が治っていないのではないか」「もっと悪くなるかも知れない」などと取越苦労や、心配をしてはならない。
そんな取越苦労や心配をすることは病気の念の想をあらためて二重写しすることになるから、あらわれて来る現象の姿も、健康と病気とが二重写しなっていて、やはり病気の姿が消えないのである。
つづく
谷口雅春著 「生命の実相」