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過去記事より掲載しています

 

 

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○  神想観は日々の精神的糧

 

 

神想観は吾々にとって日々の精神的パンであります。吾々の生活の生活には物質的パンも必要ではありますが、精神的パンはなおさら必要であります。

 

 

 

人間は肉体ではない。霊的実在である。この事実を深く心に自覚せしめるための行事が神想観である。神を頭脳で知っただけでは、神が゛わがもの゛とはならないのである。全心身をもって神の実在を体感体得しなければならない。それをなすのが神想観である。神想観を怠らず行ぜよ。

 

 

 

神想観を怠らず行じているうちに「人間神の子」の真理が、頭脳的知識から、感情的な把握となり、さらに進んで、全生命的な把握になってくるのである。神が単なる理論上の存在や、名称上の存在でなくなって、自己の生命そのものとの自覚を得はじめたとき、私たちの生活は変貌しはじめるのである。

 

 

 

霊の選士であり神の子である諸君よ。何よりも先ず神想観を修して毎日の出発をいたしましょう。そこからこそ諸君の真の進歩と歓喜と高邁なる理想実現とが生まれて来るのであります。

 

 

 

 

 

○ 神想観をしているうちに自然と「実相」が分かる

 

 

「神想観をして実相を観ずるといっても、実相を先ず知らして貰わないと実相が何だかわからぬから観ずるわけにはゆかない」と、こういう質問をされた方がありました。

 

 

その人は、実相がわからないとそれを観ずるわけにゆかぬ、こう言われたのでありますが、私はその時、実相というものは、吾々の内性(うちに既にチャンとあるのですから、予めこう言うものじゃと知らしてあげなくとも、こういうふうにして実相を観じなさいと教えて貰った通りにして観じたらそれで実相を観ずることができるのであると、こうお答えしたのであります。

 

 

 

それはちょうど東京から大阪へ行くとして、大阪が仮に実相であると喩えましたならば、大阪をちゃんと、大阪というものはこういう形でこういう具合になっているということを先ず習わなければ大阪へ行くことはできないという訳のものではないでしょう。大阪が本当にあるのだから、ありさえしたらその大阪がわかるのは大阪へ行ったらわかるのだから、大阪の方を向いてこうして汽車に乗りなさいと、切符さえ買って貰って汽車に乗ったら、汽車が大阪へ着けば、ここは大阪だということがわかると同じように行く方向さえ聞かして貰って、その方向の汽車に乗れば良いのだから、それでこういう具合に神想観をして実相の方へ向けば良いと教えられたら、その通りにやれば好いのです。その中にだんだん実相に到着して行きます。

 

 

 

 

つづく

 

 

 

谷口雅春著「生命の実相」

 

 

 

★ 上記に

 

「・・・人間は肉体ではない。霊的実在である。この事実を深く心に自覚せしめるための行事が神想観である。・・」

 

 

と説いてありますように何を瞑想するか!