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生命の実相第9巻

 

霊界篇第一章

 

 

差別心より観たる霊界の消息

 

…… (途中省略) ……

 

十八)

 

◯ スピリット自身はいかに「神」について語るか

 

 

ヴェッテリニがレイヌに与えているところは「生」と「死」との問題についての霊示である。発剌(はつらつ)として生彩(せいさい)あるその対話は、速記によらなければ捉(とら)えることができない。自分は彼女が伝えてくれた要点のみを次にしるす。

 

 

 

現世(地上への出生)はわれわれの進化のために課せられたる試練(ordeal)である。現世の生活中、われわれは自己自身の傾向および渇仰(かつごう)のいかんに従って、高級または低級のスピリットの影響ないし干渉を受けることがある。

 

 

 

われらは自己がある状態および思考によって善霊(グット・スピリット)または悪霊(バット・スピリット)を惹きつけたり拒斥(きょせき)したりする、約言(やくげん)すれば各人の霊魂は現世にいながら幽界の同僚をもつのである。

 

 

 

(著者注)

 

クリスチャン・サイエンスの一派やニューソート等の「想念の科学」が、自己の思念もしくは思想の力によって運命を支配しうるというのは、世界は唯心の所現であるからという哲学的解釈も正しい。が、同時に、唯心の現わす過程の一部として、善思念が善霊を呼びむかえ、善霊の運命の修正力を利用するによるという心霊学的解釈をも追加することが適当であろう。

 

 

 

各人の守護霊は、なお彼らよりもいっそう進化せるスピリット(われわれ人間の運命を修正するある程度の力をもつものらしい)の指揮の下にある。しかもこの高級のスピリットはなおそれ以上のスピリットに支配されているのである。(すると幽界には

厳重な階級的教職政治が存在するものらしい…)

 

 

 

数回レイヌが「神」という言葉をつかおうとしたのは注目に値いする。しかし彼女はそのたびごとにそれを取り消した。ー明らかに、それはヴェッテリニの訂正によるものである。われらはレイヌがこういうのを聞いたー

 

 

「ええ…じゃあ、われらを支配しているもの…われらの上にあるもの。」そしてある瞬間なんかはレイヌはヴェッテリニの方を振り向いていったー「では、あなたは、あなたは高級の霊界人(スピリット)でしょう。神さまをごらんになったことがおありですか?」

 

 

しばらく傾聴したのち彼女はつぶやくー「ああ、そう、そう…なるほど、きわめて高級なスピリットの上にもまだー白色のスピリットの上にもまだーその上にもまだーその上にもまだーそしてまだその高いスピリットさえもその上のスピリットに支配されていますの、まあ!」

 

 

 

(著者注)

 

わたしは「生命の実相」全集「光明篇」に(71ページ)「本当の神は霊媒にかからない」と書いた。それはこの霊界通信でもわかるとおり、高級霊の上にまだまだ高級霊があり、それがいかに高級であっても、それは「霊」すなわち第三義の幽身(かみ)であって、本当の意味で絶対神ではないからである。

 

 

 

値ある霊界通信ー高き道徳性がそれに表現されているばかりでなく、哲学的興味さえも見いだされるような霊界通信に「神」の名がきわめて巧みに使用され、神意だとか神の御旨(みむね)だとか、いかにも馴れた使い方がしてあるのが見いだされるのはいかに解すべきであろうか。

 

 

 

こうした霊界通信をもたらせるスピリットは身みずから親しく神を知っているのであろうか。神が彼を召(め)し、神が彼に使命を委託したのであろうか。ヴェッテリニはこの辺の事情を説明しうるだろうか?ヴェッテリニがわれわれに霊界通信を始めて以来、いかなる助言のうちにも、いかなる宗教のうちにも、未だかつて「神」なる言葉も観念も見いだされないのである。

 

 

この点より見るときはスピリッチュアリズムと称する近代宗教の宣道者は、中等程度の進化しかとげないスピリットに属するものであるか。これらの霊界通信のうちには価値すぐれたるものがあるのに、どうしてかかることがありえようぞ?

 

 

 

このコルニリェ氏の疑問にヴェッテリニは意見を述べるースピリッチュアリズムと称する宗教を宣伝するために活動しているスピリットの多くはきわめて高級の進化をとげたものである。それゆえ彼らはいかにして霊界通信の読者に近づくべきか、いかなる手段が読者の心理状態に適当であるかを知っているのである。

 

 

 

スピリットの存在やスピリットの通信で宗教におもむくような人々は常に「神」ー人格的「神」を信ずべき強烈な内的要求を備えている。「王」であるとともに「父」であるような神なき宗教は彼らにとっては無意義である。彼らは体現者なき理想をつかむことはできない。

 

 

 

この理由によって、スピリットは高き見地より観察して、彼らに必要な心的滋養剤ー彼らの消化しうる唯一のものーしたがって彼らを養いうる唯一のものー神を与えるのである。

 

 

 

(著者注)

 

神は絶対的存在であり、内在的もしくは本質的存在であるから、外在的にまたは比較級的世界には存在しないのである

 

 

 

一転して内在の絶対界を見るとき、そこにわれらの実相としての神を見る。この神を知ることが唯一最高の心的滋養剤となるのである。

 

 

 

谷口雅春著「生命の実相」」