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④ 運命の曲り角にさしかかった日本国 

 

 

 

○ 汝は両親の性慾遂行の犠牲者だという教育

 

 

 

教育は人間の自覚を左右し、人間の運命はその自覚の如何に左右せられるのである。而も、戦後の日本の児童の教育は日教組の教育方針にゆだねられているのである。

 

 

 

家永三郎教授の編纂した、新日本史、を文部省が児童を教育するには不適当な書籍として教科書の検定にあたって省いたことは私は当然の措置だと思うのであるが、著者の家永氏は、文部省を相手どって「教科書から省いたことは、日本国憲法、第二十一条の『検閲はこれをしてはならない』という条項にそむく違憲不法行為であってこのために教科書となっておれば、この本がたくさん売れて印税がもっと幾百万円自分の収入になる筈であったのを教科書として売れないことにしたために損害を与えた。

 

 

 

これは国側の違法行為によって損害を与えた不届行為であるから、その損害賠償を請求する」という訴訟を起こしたのであった。これは家永教科書裁判として当時有名な争点となっていたものであるが、その裁判に当たった杉本良吉判事は、国には国民を教育する教育権はないのであって、国は教育する施設を完備する責任があるだけであって、国民を教育する権利は国民自身にあると判決して、国側がこの裁判には負けたのであった。

 

 

そして占領軍が占領中に起草してその軍政下に於いて制定せられて今も有効と認められている「日本国憲法」の第二十三条には「学問の自由は、これを保障する」とあるので、学校では学問として何を教育しても好いことになっており、国、は教育される学問の内容を審査することも出来ず、国民である教師が自由にどんな教育でも施してよいということになれば、

 

 

 

その教育者の思想内容如何によっては、国を亡ぼすことになるのは勿論、国民ひとりひとりの自覚を、神の子、という崇高なる自覚に導くことも出来るが、ただの虫けらや獣類と同じく、性慾の本能に支配された、地球に生えたカビ、の一種だ位に考え獣類と同等のものだから獣慾を満足することが当然の権利だなどという自覚(?)に導くことが出来るのであって、現在の教育の実態を観るならば、まことに残念ながら後者の状態に陥っているのである。

 

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

谷口雅春著「私の日本憲法論」      ④ 運命の曲り角にさしかかった日本国

 

 

 

 

 

☆ 神と一體の自覚


まず神と和解することが必要なのである。神の救けを得ようと思ったら天地一切のものと和解した関係に入らねばならぬ。神より悪なるものが来ると考えることは神と和解しているのではない。神よりは善のみしか来らないと信ずることが神に対する和解の第一歩である。その神を対立的に観ることも神に対する和解ではない。神と和解するには神と一體にならねばならぬ。即ち神はわが内にやどりたまい、吾が目をもって見給まい、わが耳をもって聴きたまい、わが呼吸器をもって呼吸したまい、わが声をもって語りたまうと信ぜよ。