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 功利主義占領憲法下の道義頽廃

 

 

 

 

○ 唯物論的人間観は生命軽視の犯罪の温床



こうして唯物論が日本全国に勝利を得て、人間という存在は肉体と称する「物質」の集合体に過ぎないという考えがひろまってまいりますと、自然に生命軽視の傾向があらわれて来るのは当然のことであります、〃生命〃というものは物質がある形に集合した時にあらわれる現象に過ぎないということになる。

 

 

 

それは物質に従属する作用に過ぎないと解釈されるのであります。これでは〃生命〃が尊重されないのは当然のことであります。現行の日本国憲法もそのような唯物論的人間観によって条文がつくられております。

 

 

 

基本人権が尊重せられるように書かれておりますけれども、人権即ち人間の権利をみとめる基礎となる「人間」なるものの捉え方が唯物論的でありまして、「人間」というものは「快楽に引きつけられ、苦痛に対して反発する物質的塊」であるとして之を捉え「肉体人間」の「快楽追求の願い」が基本人権として強調せられているのであります。

 

 

 

だから「肉体の快楽を追求することが何が悪い?.」ということになってまいりまして、無数に色々の歓楽追求の場が建設せられて、その目的のためには姦通しても罪には問われない、本人同士がお互いに納得ずくで快楽が得られればよいではないかとーいうふうに定められております

 

 

そして国民は競争して肉体の快楽に赴くものですから、肉体の快楽が経済的理由によって得られない者は、「人間」を殺してでも快楽追求に必要な金を得ようとする。

 

 

しかも「人間」を殺すといっても、その「人間」なるものは「物質」が偶然に「人体」という形に集合したものであるから、そして、その物質から「精神」というような「作用」が出て来て色々悩んだり、苦しんだり、生活難に追われて働いているのであるから、

 

 

 

その「人体という形」に集つている「物質機構」を壊してやつたら、その男はもう「精神」という作用がでて来なくなり、従ってもう悩むこと苦しむことも働くことも不要になり万事とい乏とになり、OKということになり、却つて相手を悩みから解消することになり、相手はたすかる。

 

 

 

そして自分は、相手の金を奪って自分の肉体が快楽を得ることができるようになるーこうして彼を殺すことは一石二鳥の幸福となると考える-彼はこんなにハツキリとは理論的に考えなくとも、「人間」そのものの把握の仕方が「物質的肉塊」にすぎないとしてとらえる限りは潜在意識の底にはたとえ漠然なりともこのような考えが横たわっている。ー そのために人命軽視の傾向は益々。さかんになるばかりであります。
 

 

こうして列車の二重衝突、砂利トラックの暴走や衝突・・・無数の交通事故なども、其処から発生しているのでありますが、政府はその根元を知らないで、国民が金銭的物質的収入が殖えたら幸福になると思って「所得倍増論」を弁護して、現実の中小企業の倒産などには一向目もくれないのであります。

 

 

それでストラィキ権もっている大企業や、スト権はなくとも、団結政府し得る勤労者である三公杜五現業の如き組合の従業者は、今までよりも余程収入は殖えているのに、物質追求の欲望は無限であるから、いくらでストラィキで恐喝して自已の収入を殖やそうとするのであります。

 

 

その結果団結してストのできない倒産一歩手前の小企業の従業員との収入の格差は益々増加するばかりであります。戦争さえも物質的利権や領土の拡大によって利益を得ようとする国家の欲望の追求から来るのでありまして、結局、その根本的原因へと遡って行けば、「人間」というものを「物質的存在」として(とら)え、「所有物質」の多さに比例して幸福が得られるという根本的錯誤から来るのであります。

 

 

 

 

○人類の抜本的救済には人間観の革命を必要とする


 

このような国家的また世界的苦難を救済するための根本はどこにあるかと申しますと、「人間」を「物質」と観てその幸福の増大を「物質所得の増大」によるという人間観から脱却きして、

 

 

人間を、〃神の子〃なる霊的存在として、魂の悦びこそ人間の本当の悦びだという人間観に一変せしめなければならないのであります。
 

 

大体、人間は、現象界の物質の追求で、永遠に変らない幸福が得られるという浅墓な考えを棄てなけれ本当の幸福は得られないのであります。

 

 

だから、仏典によりますと釈尊は「お金は毒蛇だよ、それに近づいたら危険だよ」と阿難(あなん)に教えられた。

 

 

仏教では、「諸行は無常なり」と説く、諸行とは諸々の現象のことであります。物質は現象でありますが、「現象はすべて移り変る。移り変らないものはない」ということが「諸行無常」であります。

 

 

無常なるもの移り変るものを、無常でないと思い、それを移り変ることはない、確乎(かくこ)たる常住の存在だと錯覚する、そしてそれに執着するー其処に人間の悲劇があるのであります。

 

 

 

 

 

谷口雅春著「私の日本憲法論」      功利主義占領憲法下の道義頽廃)(完)

 

 

 

 

☆キリストの復活

ニコデモは新たに生まれることを知らない所の、自己をいつまでも物質の塊だとして見ている人間を代表してこう言っているー「人はや老いぬればいかで生るる事を得んや、再び母の胎に入りて生るることを得んや」と。

 

彼は新生することをどこまでも物質的更正であると考えているのである。キリストの十字架の真の意義は「肉體」を抹殺して「靈」として復活することだったのである。彼は「肉體なし」と説教してもわからないから、現実に肉體を十字架につけて復活して見せたのである。

 

 

☆ 自己を死に切る

「悔改め」を佛教では「懺悔」と言い、自己放棄と言い、パウロは「自己を死に切る」と言った。一遍、肉體としての自分を死に切ったとき、靈の自分に復活(よみがえ)るのである。自分を肉體だと思っている限りにおいて、人間はエデンの樂園から追放せられなければならない。自分を肉體だと思う知恵は地(物質)に執した蛇の知恵である。蛇は地を這う動物であり、地は物質を表微し、物質をありとして執着する五官を「蛇」をもってあらわし、その蛇に教えられたる知恵を「知恵の樹の果(み)」をもって表微する