過去記事より掲載しています

 

 

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◎ 憲法復元か、革命か

 

 

 

 

○ 超高峰を踏んで立つ生き甲斐 
  
 

 

日本の学生騒乱のテキスト・ブック『日本革命の根本問題』について、田中卓氏は『国家興亡の岐路』に次のように説明されている。
  
 

「著者は太田竜となっていますが、太田はペンネームで、ほんとうは栗原登一という人物です。一九六三年の五月に初版が出たのですが、それが全学連の過激な指導者の愛読書、いわば"バイブル"になっているのです。

 

 

最初の書き出しに『日本革命は武カ革命である。わが国のプロレタリア革命は平和的に、議会を通じて実現することはできない。それは必ず武力を以て、議会の外で実現されるのである』とあります。はじめから武カで革命をやるんだと言い、つぎにこの武カをどのようにして手に入れるかということが書いてあります。

 

 

そして革命を行なうときには、まず第一に自衛隊を内部からマヒさせる。第二には全国の主要街道をバリケードを築いて封鎖する。第三には首都東京における市街戦を展開する。その次には自分が働いている工場経営を占領する。その次には警察権カの中枢を破壊する。最後にマスコミ機関を占拠し革命権カの掌握下におくーこういう順序で革命のやり方が詳しく書かれているのです」
  
 

 

はたしてこの通り、うまく実行できるかどうかは疑わしいが、こういう戦略を詳細に書いて示されると、「父コンプレックス」を十二年間、小、中、高校と、日教組の゛父母を恨む教育"で養われて来た大学生には、“父代表“として立つ”権カ機構“または”国家権カ“を破壊する冒険にとりかかって見たくなるのは自然の順序なのである。

 

 

 

それはあたかも、冬山の懸崖(けんがい)に、ピッケルとザイルを頼りに、自分の生命をかけて登攀(とはん)を試みる冒険のスリルに似たものを味わうに相違ないのである。「そんな危険な山登りをするな」といって父兄が止めても、”高い権カ機構“を踏みにじって立つ試みは、超高峰に登るのと同じで、青年にとって、ある種の生き甲斐となるのである。


 

 

 

○ 革命政府は、天皇を戦犯者として処刑する (昭和四十四年 )
  
 

こうして国家権カを武カによって奪取した後、革命政府は何をやるのであろうか、田中卓氏は前記、太田竜著の日本革命のバイブルを引用して次のごとく書いている。 
  
 

「その次には『革命政府の果たすべき課題』として、革命を行なった後どうするかということまで書いています。

 

 

天皇制については、『革命政府は天皇を直ちに皇居から追放し、対中国.ソ連侵略戦争の戦争犯罪人として裁判にかける』。

 

 

 

警察官なども『警部以上の幹部は即時追放』し、場合によっては人民裁判にかける。検事も追放する。

 

 

 『自衛隊は解散する』そのかわりに『人民解放軍』をつくる。そして『人民解放軍の基本原則は“全人民の武装“である』とありますから、徴兵によって国民全部を武装させ、『社会主義祖国の防衛のために、全勤労人民は戦闘準傭をととのえなければならぬ』と書いているのです。

 

 

 

また個人でいいますと一切の銀行資本は無償で国有化される』『百万円以上の個人銀行預金は凍結される』『居住者一人当り、一〇坪以上の大邸宅は無償で国有化する』ーこういうことが書いてあるのです。

 

 

 

もし革命が行なわれますと、こういう事態になるわけです。決して夢物語りではありません。こんなことは、もうソ連や中共でやってきていることなので、何もめずらしい事ではありません。ですから日本でもやるんだと、彼らは五年も前から叫んでおるにすぎません」 

 

 

このプログラムに従って革命運動は進行の途上にあるのであって、学生の騒乱は、その前哨戦にすぎないというのが田中卓氏の御意見なのである。

 

 

 

つづく

 

 

 

谷口雅春著「私の日本憲法論」

 

 

 

 

 

☆ 下記は当ブログ過去記事からです。

2018年04月02日

テーマ 天皇陛下

 

 

◎ 天皇は身を捨てて國民を救われた 

 

 天皇がどんなに、一身を犠牲にしてでも、日本國民をたすけたいと思われたかということについて、以前鈴木終戰内閣の書記官長だった迫水久常氏(さこみずひさつねし)が、『終戰の眞相』と題する冊子をものして送って來られましたが、その中に、その席に参列した内閣書記官長の記録として、終戰直前の御前會議の模様が詳しく語られていますので、從來の第三者復聴きの断片的な記録をもととして天皇の御徳につき話したこともありますので、その多少の誤聞を訂正する意味もあって、最も信憑し得るものとして次にそれを引用させて頂きます。

 

 この記録は、長崎に二發目の原子爆彈が投下され、原子研究の権威・仁科博士が廣島の原爆の現地視察の後、「残念ながら原子爆彈に間違いありません」と答申して、「原爆所有國に對してはとても抗戰できない」と驚天動地の脅威を専門家が感じていた直後の御前會議の記録であります。迫水氏はこう語っています。――「御前會議は八月九日夜十一時から開かれました。列席者は、總理、外務、陸軍、海軍の四大臣、陸軍参謀總長、海軍軍令部總長、平沼枢密院議長の七名が正規の構成員でありまして、陪席員は、私、陸海軍の軍務局長、内閣綜合計各局長の四名、合計十一名であります。正規構成員七名の中(うち)、現存者は豊田軍令部總長だけであります。

 

 會議場は宮中防空壕内の一室で約十五坪程のお室でありました。地下十米(メートル)であります。一同席について陛下をお待ちしました。陛下は足取りも重く、お顔は上氣したるが如くにて入って來られました。今も深く印象に残っておりますのは髪の毛が数本額に垂れておられた事です。會議は總理が司會致しまして、先ず私がポツダム宣言を讀みました。日本に耐えがたい條件を讀むのでありますから全く堪まらないことでした。次に外相が指名されて發言しました。その論旨はこの際ポツダム宣言を受諾して戰爭を終わるべきであるということを言葉は静か乍ら断乎申されました。次に阿南陸軍大臣は、外相の意見には反對でありますと前提して、莊重に涙と共に今日までの軍の敗退をお詫びし、併し今日と雖(いえど)も、必勝は期し難しとするも必敗ときまってはいない。

 

 本土を最後の決戰場として戰うに於いては、地の利あり人の和あり死中に活を求め得べく、若し事志と違うときは日本民族は一億玉碎し、その民族の名を青史に止むることこそ本懐であると存じます、と言われました。次の米内(よない)海軍大臣はたった一言、外務大臣の意見に全面的に同意でありますと言われました。平沼枢密院議長は列席の大臣、總長にいろいろ質問されたのち、外相の意見に同意であると言われました。参謀總長・軍令部總長はほぼ陸軍大臣と同様の意見であります。この間約二時間半。陛下は終始熱心に聞いて居られましたが、私はほんとうに至近の距離で陛下の御心配氣なお顔を拜して涙のにじみ出るのを禁じ得ませんでした。

 

 一同の發言の終わったとき、私はかねての打合せに從って總理に合図致しました。總理が立ちまして徐に『本日は列席者一同熱心に意見を開陳致しましたが、只今まで意見はまとまりません。しかし事態は緊迫して居りまして全く遷延を許しません。誠に懼れ多いことでは御座いますが、ここに天皇陛下の思召しをお伺いして、それによって私共の意見をまとめたいと思います』と述べられ静かに歩を移して陛下の御前に進まれました。

 

 その時、阿南さんはたしかに『總理』と声をかけられたと思います。併し總理はおきこえになったのか、おきこえにならなかったのか、そのまま御前に進まれまして丁寧に御禮をされまして『只今お聞きの通りで御座います。何卒思召しをお聞かせ下さいませ』と申し上げました。陛下は總理に對し席に帰って居るようにと仰せられましたが、總理は元來耳が遠いためによく聞き取れなかったらしく、手を耳にあてて『ハイ』というふうにして聞きなおしました。この間の図は聖天子の前に八十の老宰相、君臣一如と申しますか何とも言えない美しい情景でありました。

 

 總理は席へ帰りました。天皇陛下は少し体を前にお乗り出しになるような形でお言葉が御座いました。緊張と申してこれ以上の緊張は御座いません。陛下は先ず『それならば自分の意見を言おう』と仰せられて『自分の意見は外務大臣の意見に同意である』と仰せられました。その一瞬を皆様、御想像下さいませ。場所は地下十米の地下室、しかも陛下の御前。静寂と申してこれ以上の静寂な所はございません。

陛下のお言葉の終わった瞬間、私は胸がつまって涙がはらはらと前に置いてあった書類にしたたり落ちました。私の隣は梅津大將でありましたが、これまた書類の上に涙がにじみました。私は、一瞬、各人の涙が書類の上に落ちる音が聞こえたような氣がしました。次の瞬間は號泣であります。

 

 

 

涙の中に陛下を拜しますと、始めは白い手袋をはめられたまま親指を以てしきりに眼鏡をぬぐって居られましたが、ついに両方の頬をしきりにお手を以てお拭いになりました。陛下もお泣きになったのであります。建國二千六百余年、日本の初めて敗れた日であります。日本の天皇陛下が初めてお泣きになった日であります。ああ何とも申す言葉がございません。

 

 谷口雅春 著  「古事記と現代の預言

 

 

 

 

☆ 現憲法が国民に植えつけたエディポス・コンプレックス


学生騒動について政府は末梢的な対症療法的な施策を、閣僚たちで協議しているらしいことが新聞紙に報ぜられている。けれども、この問題はそんな皮相な籠手先の鎮撫策や取締りでおさまってしまうような浅い問題ではないのである。根本的には教育内容のあり方を斬然(ざんぜん)変化してしまわなければならない問題であって、佐藤三選内閣でそれが果せるかどうか、テストの岐路にさしかかっていると言い得るのである。

学生騒動は決して単に学制という外国的な制度の改善の問題ではないのである。これはわれわれ宗教家であり精神分析学者である者から観れば、戦後の教育が若い人に「父コンプレックス」を養成するように計画されており、その「父コンプレックス」の累積が「父代表」として上位者、権力者、権力機構に対する破壊衝動として爆発しているのだと解釈されるのである

「父コンプレックス」というのは、エディポス・コンプレックス、または、エディポス錯綜、と精神分析に於いて呼ばれるところの人間の潜在意識内にひそむ「父を殺したい感情」である。戦後の日本国憲法は、日本を弱体化するために「家」(建物にあらず、祖先および父母の生命と自分の生命との系譜的一体の自覚)を破壊して、人間を個々別々なる孤立的存在として、個、の生命を祖先および父母の生命から切り離して、父を憎むように教育する根拠を与えた。これがいわゆる民主教育と称する

そして日本国憲法の主旨とするところに従い、日教組の先生のうちには、教壇から生徒に向かって「君たちは親に対して孝養を尽くす義務も責任もないのである。なぜかといえば、君たちは父母の淫欲遂行の享楽目的の犠牲となって生まれて来たのであるから、孝養をつくす義務も責任もないばかりか、いわば賠償を要求する権利があるのだ」というような父母を憎む感情を養成するための露骨な教唆(きょうさ)を行う者すらあらわれたことがわかっているのである。
なぜ、それがわかるかと言えば、われわれの団体で学期末または学年末の休暇を利用して中学生、高校生、大学生等の人生観改造の錬成会を各地で開いているのであるが、その錬成の終了の日に錬成参加者に感想文を書かせることにしているが、そのときに、「今まで僕は、学校では先生からこのように教えられていたが、この錬成を受けて始めて、父母の尊いこと、その愛情の深さなどがわかって、これから親に孝養をつくします」というような感想文を書く、その感想文の中に、今まで学校で教えられ植えつけられていた「父母を憎む感情」が自然にもらされるのである。つまりこうして、日本の現代の教育では、父母を憎む「エディポス・コンプレックス」が養成されつつ今もそれが続いているのである。(母に対するコンプレックスを「エレクトロラ・コンプレックス」と称する)

小中高校生というような、魂がまだ稚(おさな)くて感じやすい、傷つけられやすい時代に、「お前は父母の淫行によって生まれた、汚れた存在なのだ」と学校の先生から教えられる現代の日本の小青年ほど気の毒で可愛そうなものはないと思う。自己の存在の根源を父母の不浄なセックス遊びから生じた汚い粘液の塊だというような唯物論的人間観を教えられるとき、その若い傷つきやすい日本の少青年の魂は非常なショックを受ける。そこから「父コンプレックス」及び「母コンプレックス」がうまれる。