過去記事より掲載しています

 

 

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◎ 憲法復元か、革命か

 

 

 

○ なぜ、総理は大政を奉還しないか、その分析 
  
 

 

天皇に大政を奉還すべしと私が説くと、"もと皇族"とかいう匿名の人から投書をいただいたが、それには、「現在の状態で天皇は、何の責任もなく、気楽であって、この天皇に再び国家統治の責任を負わし奉ることはかえって不忠のことである。現在の象徴天皇がもっともよろしい」という意味のことが書いてあった。
  
 

しかし私が考えるのに、男子いやしくも此の世に生まれて、何の責任もなく、皆の決めたことに、自分の意見を述べる権利もなくただ判を押させられる役などになっていて、はたして生き甲斐が感じられるであろうか。何の仕事も責任も与えられないで、裕(ゆた)かに生活をする保障だけを与えられているものを、或る人は「飼い殺し」と名づけていた。

 

 

誰でも平杜員から係長になり、課長となり、部長となり、重役となり、杜長となるべく努力をつづけているのは、一層責任のある地位について男の生き甲斐を感じたいからではないか。

 

 

そして日本の総理大臣が、占領軍から貰った国家統治の大権を、占領が終ってからも天皇に奉還したがらないのは、精神分析的に観れば、やっぱり、男子いやしくも此の世にうまれて、国家統治の責任という最も大なる責任を担い続けていることが、どんなに気持がいいことかしれない気持があるからではないか。
  

 

 

○ 占領憲法下では首相が事実上の元首である 
  
 

 

私のように「天皇に大政を奉還すべし」と説くのではないが、「天皇を元首にすべし」と説いている武藤貞一氏にも反対する人からの投書や意見が送られて行くのか、武藤氏は次のように述べている。
  
 

説をなす者は、天皇のおために象徴の方がご安泰でよい。元首となられると、風当りが強くなり、結局政治にまき込まれる恐れがあると、いかにも天皇をかばっての至誠の言といえないこともないが、これこそ一知半解の弁であろう。

 

 

 

天皇が天皇たるは元首なるがいえではないか。わが民族悠遠の伝統は、天皇を国の元首と仰ぐところにあった。天皇が元首の座から下りられたことは、あたかも神話の天岩戸に隠れられたのと同じで『これより天地晦冥(かいめい)』なのである。万悪の因(もと)をなす米製憲法のうち、とりわけこれこそ万悪の因の因と指摘しなければならぬのは、憲法による元首の抹殺である」

 

しかし、今の憲法では“元首"という称呼を用いてはいないけれども、実権上、多数党の党首にして総理大臣になった者が、国家権力実行上、事実上の”元首"をなすのであって、“象徴"になった天皇には何の実権もないのである。

 

 

この”事実上の元首"として戦後の日本の政治の実権を握り、自衛隊の陸海空三軍の指揮権を一手におさめていることは、人間として最高の権力を掌握することだから、まことに気持がよいことで、たとい、その実権を占領軍から貰ったものであるにしても、その実権を棄てたくないのは人情の然らしむるところであるけれども、

 

 

日本の総理たるものは、決してそのような"私"の権力を持続したい欲望の誘惑に負けて臣節をやぶるようなことがあってはならないのである。
  
 

 

武藤貞一氏は言う。
 

「山口県第二区選出代議士佐藤栄作(元総理)のために、戦場で決死、敵に当る兵士はあるまい。佐藤氏は首相でも、国家の象徴たり得るには無縁だからである。にも拘らず、現憲法は、これを三軍の統帥者に位置づけている。はたしてこれでよいと思うか」(『改憲か革命か』三十五頁)
  
 

これでは、"実権゛を握っている者よりも"象徴“である方が立派であるように聞えるが、武藤氏は果たして、そんな気持でいったのであろうか。そうではあるまいと私は思いたいのである。

 

 

 

 

つづく

 

 

 

谷口雅春著「私の日本憲法論」     ◎ 憲法復元か、革命か

 

 

 

 

☆ 現在の日本国家は古事記の天之石屋戸 (あめのいわやど)のくだりのところです。

 天照大御神(あまてらすおおみかみ)様が天之石屋戸にお隠れになっているところです。太陽がずーと隠れて入る状態です。食物は育たず。疫病が流行り、神々が集まって何故?どうして?どうすれば良いか、話しあった結果、天照大御神さまが天の石屋戸にお隠れになっているからだ、出て来てもらおうとなり、色々やってやっと出て来てもらって地上に光がさし、食物は実り、疫病はなくなり地上天獄になったという神話です。現在日本国家の元首が天皇になっていませんので、色々の問題が出て来ているという事です。

 

それを詳しく書いてあるのが当ブログ過去記事下記です

 

 

2018年10月14日

テーマ:古事記

☆異常に発達した文明は、人間から直感力と直感把握の価値とを奪い去ってしまったようにみえる。神話は、古代日本民族のすぐれた直感把握によって創造された、雄大な一大叙事詩である。「古事記」はそれを読む人の力量によってその文章の奥にある秘儀を捉える度合いがきまると言われている。

 

 

 ◎   「實相世界の現象化」

 

(これからが有名な天照大御神様が天之石屋戸におこもりになられたところです!)

 

 ・・・・以下省略

 

 

◎ 古事記物語

 

◯ 天之石屋戸  

 

『神様にささげる御衣(みころも)を織る、神聖に清められた御殿』そこにむごたらしく皮をはいだ馬を投げいれ、心の美しく、まごころこめてはた織りしている乙女を殺すとは--。

 

さすがに、心のやさしく、おおらかな天照大御神様(あまてらすおおみかみ)も、この大事件には驚き ーおそれみ畏(かしこ)み天(あめ)の石屋戸(いわやど)を開いておはいりになり、入り口の岩戸を固くしめて、おこもりになってしまいました。

 

天照大御神様(あまてらすおおみかみ)は、世の中を照らす、太陽のような神様ですので、こうして石屋戸におこもりになってしまいますと、高天原(たかあまはら)も、地上の豊葦原中国(とよあしはらなかつくに)も、すっかりくらく、まっくらやみになってしまいました。

 

 

くる日も、くる日も、太陽のない、夜ばかりがつづきました。萬(よろず)の神々は、口々(くちぐち)に、五月のはえのようにさわぎたてています。

 

この不安や恐怖などのさわぎのなかから萬(よろず)のわざわいが、次つぎとおこりはじめました。

 

「一体どうしたことか」人々はますます、不安と恐怖におののき、それぞれたき火を囲んだり、だまりこくったり、さわぎたてたりしておりました。

 

 

今までのように、明るく楽しく、生き甲斐がいある世の中にするにはどうしたら良いのだろうー。

 

八百萬(やおよろず)の神々は、天(あめ)の安河(やすかわ)のかわらにお集まりになりました。

 

 

つづく

 

★ 戦後天皇陛下は元首から象徴になっています。これが天之石屋戸の状態です。天皇陛下を元首の位置にしなければ日本国家は治まらないという事です。