過去記事より掲載しています。

 

 

 

⑦ 日本再建の道を拓くもの

 

(日本が独立した直後、昭和二十七年八月号の「生長の家」誌に掲載、パンフレットとしても配分され、諸方に反響をよんだ。『限りなく日本を愛す』第一章に集録。)

 

 

 

 

○ 過去を捨てる自由 

 

 

新しき日本が生れる。新しい人間が生れる。朝々が新生である。咋日見た夢がどんなに見苦しいものであったにせよ。夜がそれを消してくれたのである。新しき日本が生れる。新しい人間が生れる。新しい人生が生れる。

 

 

 

新しい人生をつくり出す基礎は、過去を捨てる諸君自身の能力にある。敗戦した日本などはないのである。日に日に新しき日本である。戦前よりも数等すぐれたる新しき日本である。

 

 

 

しかも占領下に押しつけられたる民主主義の日本であってはならない。すでにそれも過去である。過去はないのである。

 

 

 

万物は常に新しく生れる。過去を把(つか)まなければ過去は消えるのである。押しつけられたる民主主義も結局過去のものである。それを捨てよ。捨てて新しきものを見出しそれに生きよ。

 

 

 

押しつけられ、宣伝されたる民主主義の中には日本を弱めるために正しいと宣伝されたる思想が沢山混っている。それを脱ぎ捨てる事を反動だとか、軍国主義に還ることだとか思ってはならないのである

 

 

 

間違った民主主義が皇居前の乱闘を惹き起し、学生の警官つるし上げ事件が発生し、その反動として行き過ぎた学生と警官との乱闘事件が惹き起され、更に国会にまで暴力による法案通過の阻止が再三行われたことに注目しなければならない。

  

  

 

 

 

○ 暴力を捨てる自由 

  

 

本当の民主主義は「人間は神の子で平等だ」と云うことである。それは自分ばかりの権利を主張するためばかりの平等であったり、相手の自由を侵害しても好いような平等であってはならないのである。

 

 

 

文部省の次官通達の意味をとりちがえて、学生が職務執行のために学内に立入った警官をつるし上げたと云う事の中には、あまりに通達とか法律とかの文旬に狗泥して、それに支配されている学生の態度が見えるのである。

 

 

 

これは文章に縛られたのであって、学生自身の良心の自由を得たのではない法律や通達の文章は、天下の最も悪文章家の綴つたものであるから、どちらにでも解釈されるものなのである。

 

 

 

警官は警宮の好いように解釈し、学生は学生の好いように解釈して暴力を揮(ふる)う。暴力のあるところに自由はない。自由を護ると云いながら、ひとの自由を暴力で束縛しては何の自由であるか。

 

 

 

 

 

○「戦う」とか「闘争」とか言う言葉を捨てよ 

  

 

 

吾々は、「自由のために戦う」とか「平和を戦いとる」などと云う言葉を人類の世界から拭い去らなければならないのである。言葉は「種子」であるから、「戦う」という言葉が人類に用いられている限りに於いてこの世界に戦争は絶えないのである。

 

 

 

如何に多くの戦いが平和のための名のもとに行われたか。また平和のための名のもとに、国内争闘が現に行われつつあるか。そして戦争準備が行われつつあるか。

 

 

 

真の人類の平和を得るには人類すべては「人間・神の子」の自覚を確立し、自己を尊敬し礼拝すると共に、他の人をも尊敬し礼拝しなければならないのである。ひとを暴カによって押しのけるのではなく、相互に尊敬し、合掌し、礼拝し、よろこんで互に譲歩するのである。

 

 

 

譲歩すると云うことを自己を束縛することだと考えている人や、ひとのために尽すことや、尊敬すべきものを尊敬しないことを民主主義だと考えて新人をもって任じている人もある。それが杜会の木鐸(ぼくたく)たる新聞記者の中にも随分あるから驚くのである。

 

 

 

 

 

○ 或る新聞の日本婦人観 

  

 

 

最近或る有名な一流新聞の時評欄には次のようなことが書かれていた―

 

「日本の最も驚嘆すべき産物は婦人である。もちろん彼女を作るには幾千年もかかっているが、日本の婦人は日本人と同じ種族に属していないぐらい立派である。

 

 

 

おそらくかかる形の婦人は今後十万年くらいは再びこの世に出現しないだろう―この驚嘆すべき言葉は……ラフカディオ・ハーンの明治三十七年の著書に発見されるのである。……これは女性を礼讃していて、その実は女性侮辱の言葉である。

 

 

 

過去の日本がいかに男性のための国であったかを証明する言葉に外ならない。ハーンの知性も男性としての本能の前には曇らざるを得なかったのだ。アメリカの男は女性を喜ばせるために全力を注ぎ、日本の女性は男性を喜ばせるために献身するという見方もある。

 

 

 

男女同権になって、日本婦人も一歩一歩自覚を高めているようだ。自覚は男性に従属するだけの環境に満足させなくなるに違いない。その意味では男性のための、かかる形の婦人は十万年くらいは現われないと云う予言は当るであろうと。

 

 

 

 

 

○ 無我献身の美徳を復活せよ 

  

 

 

しかし、ハーンの驚嘆し讃美した日本の女性の美しさは、従順と無我献身であったのである。

 

 

 

これに対するこの新聞記者の批評は従順と無我献身することを、「相手に対する従属」とみとめ、それを「自主精神の欠乏」であると見ているのである。

 

 

 

一見合理的に見える此の民主主義精神は、人間から従順と無我献身の精神を奪い去り、自己主張と自己発展とのためには闘争を辞さないのが美徳であると推賞するものであって、家庭内にも、産業界にも内部闘争と内部紛争とを常に捲き起す争闘の合理化論であるのである。

 

 

 

無我献身の精神と従順の美徳は、真の民主主義の根本であるところの「先ず与えよ、与えられん」を云いかえたものに過ぎないのである。この精神によってのみ、平和国家、平和世界が建設されるのである。

  

 

 

争闘によって自己発展自己拡大をはかることを民主主義とみとめるならば、国内はストライキや群衆示威によって内部闘争はあとを絶たないことになり、国際的には戦争によって自国の発展と拡大とをはかることになるから、かかる似而非(えせ)民主主義は、戦争を根絶する思想とは概(およ)そ甚だ遠いのである。

  

 

 

アメリカでも真の民主主義は「先ず与えよ、与えられん」のイエスの教えを実践する事であって、この語を別の言葉で言い換えれば「無我献身と従順」と云うことになるのである。

 

 

 

「無我献身」をもって、封建思想なりと排斥した「民主主義」の押しつけ的植付は、アメリカが占領中、日本を弱体化そうとして行った日本に於ける失政の第一であって、今や従順でなく自己主張のために絶えず争闘を考えている民衆をこしらえて、朝に皇居前の乱闘、タベに学園に於ける学生警官の乱闘を惹き起して、其の功罪は明かとなりつつあるのである。

 

 

 

つづく

 

 

 

谷口雅春先生「私の日本憲法論」     ⑦ 日本再建の道を拓くもの