過去記事より掲載しています

 

 

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② 〝国〟というものの無い日本国

 

 

 

 

○ 忠誠の目標が変わる

 

 

どのようにして国民が、国政を行政府に信託するかというと、憲法第四十一条に「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」と定められて、国会に於ける立法を通して「主権をもつ国民」が、その権威と権力とを行政府に信託委譲して、その委譲した権力の執行によって得た福利を国民に還元するというようになっているのである。

 

 

すなわち、主権、をもつのは国民であり、その、主権の行使、が行政であり、選挙によって代表者を選び、その代表者に、その、主権の行使、を信託委譲する。行政権を委譲されたその代表者が政治を行うために内閣をつくり、その代表者のうちの首長が総理大臣となり、総理大臣が閣僚たる諸大臣を任命して、国政を各省等に分類して分掌せしめるということになっているのである。

 

その閣僚たる諸大臣の一人が文部大臣であり、その文部大臣以下の文部官吏が行った教科書の検定が、「検閲は、これをしてはならない」という憲法第二十一条の禁止条項を犯して行なわれた不法行為の結果、家永三郎教授は憲法第十七条に基いてその損害賠償を“国”に対して支払えという訴訟を起こしたというのであるが、

 

 

以上、日本国憲法の前文及び諸関係条項にもとづいて精細に分析してみたけれども、どこにも“国”というものは、私には、(少なくとも私には)見つからないのである。「国政」という文字は、たしかにあるけれども、それは「主権の存する国民」の行政府への委譲であって“国”という独立した一貫性ある、人格的尊厳、をもった存在はどこにもないのである。

 

 

つまり「国に対して賠償を支払え」と要求することは、「主権の存する国民」に対して賠償を支払えということなのではないか。それとも、国、という者が賠償を支払うとすれば、一体どこから賠償を支払うのか“国”そのものの存在が曖昧なので、私には訳がわからないのである。
 

 

 

最近、靖国神社国家祭祀の法案が審議未了で今国会では廃棄の余儀なきに至った由であるが、私はこの案の精神には賛成であったが、「“国”が靖国神社を祀る」という場合“国”の定義も内容も不明瞭なので、賛成意思発表をさしひかえていたのである。

 

 

おおむね、行政府のしたことを「国がした」とみとめて「国に賠償を支払え」という訴訟が成り立つとしたならば、行政府が自民党である場合には自民党政府が靖国神社を祀るのか、「国が靖国神社を祭祀する」ということになるだろうが、

 

 

 

行政府が自民党でなくなって、かりに共産党政府が出現した場合、「国が靖国神社を祀る」という場合には、共産党政府が靖国神社を誠心をもって祭祀することができるであろうかという問題があるのである。

 

 

 

いやしくも“国”というものは行政府のイデオロギーによって、その内容がくらくらと変わるようなものであってよいのだろうか。つまり、くらくら変わるような内容のものは「本当は存在しないから変わる」のである。

 

 

統治機構や、行政機構を、漠然と“国”そのものと混同してしまって国民が忠誠をつくすべき対象が何者なのか、訳のわからない存在にしてしまっているのが今の憲法なのである。

 

 

 

三島由紀夫氏が、現行の憲法によって、日本国民は「忠誠の目標を失った」と歎いて自刃したのは無理がないのである。

 

 

 

一国の国民が、ある時は自民党政府に忠誠をちかい、ある時は共産党政府に忠誠であるよりほかに、国に対する忠誠のつくしようがないなどということは、それは忠誠ではなくて、時の権力者に対する奴隷なのである。

 

 

 

1日も速く 、現行占領憲法を廃して、行政機構や統治機構を超えた超越的価値をもつ歴史的伝統ある日本国に家の存在を規定した明治憲法への復原がなければ、日本国民は愛国の対象を喪失してしまい、日本国家はその存在を近いうちに没してしまうことを私は憂えるのである。

 

 

 

 

谷口雅春著「私の日本憲法論」      (② 〝国〟というものの無い日本国)

 

 

 

 

 

 

 

☆ イギリスの君主として歴代最長となる70年にわたって在位してきたエリザベス女王が8日、96歳で亡くなりました。

 

1953年6月2日にウェストミンスター寺院で開かれたエリザベス女王の戴冠式に日本の皇太子(現上皇様)出席

 

27歳のエリザベス女王は「競馬を一緒に見ましょう」と19歳の上皇陛下を誘った。即位当時の心温まるエピソード

 

 

上皇陛下(当時の皇太子)による初の外遊でした。帰国後の会見で「実に温かく、フレンドリーな方と思いました」と女王の印象について語っています。

 

エリザベス女王の戴冠式は27歳のときです。即位の翌年にあたる1953年6月2日、ウェストミンスター寺院で開かれました。父・昭和天皇の名代として、現在の上皇陛下が参加していました。当時は皇太子になったばかりの19歳。「明仁親王殿下」と呼ばれていた上皇陛下の初めての外遊でした。

 

第二次大戦の集結のわずか8年後。イギリス国内では依然として砂糖と肉が配給制。国民が不満を漏らしており、都市の至る所に爆撃の跡が残っていました。第二次大戦で敵対した敗戦国「日本」に対するイギリス王室の視線は冷たかったそうです。

 

上皇陛下の学友だった橋本明さんが書いた「知られざる天皇明仁」(講談社)によると、戴冠式での上皇陛下の席次は17番と冷遇。各国代表を回った新女王のあいさつでも、他の国の皇太子と同室のまま3時間も待たされた挙げ句、女王は握手はしてくれたものの視線を合わせなかったそうです。

 

このときの欧米14カ国訪問について「敗戦国代表の悲哀が身に染みた」と上皇陛下は帰国後に友人に語っていたそうです。

 

■使者からの思いがけない言葉「よろしかったら女王のスタンドで第二レースを」

 

六月六日エプソム競馬場でダービーを観戦した親王はモーニングコ ートにグレーのトップハットを着装し、第三レースのダービーステークスの馬券を買った 。隣のスタンドに英王室ご一行が陣取っている。第一レースが終わったところで 、女王のお使いが親王を訪れた。「よろしかったら女王のスタンドで第二レースを … … 」と誘いの言葉 。親王は素直にこの招待を受けた 。

 

上皇陛下はこのとき、エリザベス女王との会話を楽しんだようです。帰国後の同年10月16日の記者会見で女王の印象を問われた際に、以下のように答えてます。

「エリザベス女王とは、公式会見と競馬場で二回ゆっくり話したが、実に温かく、フレンドリーな方と思いました」