過去記事より掲載しています

 

 

テーマ:

 

 

◎ 日本国の背景となる哲学

 

 

つづく

 

 

◯ 全体が先か部分が先か 

  

 

 

ところでこの日本国の実相に反するところの条項が現行の日本国憲法の第一条に書かれているのであります。

  

 

それは「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と書かれている箇条であります。 

  

 

天照大神(あまてらすおおみかみ)の神勅(しんちょく)には「是(こ)れ吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たる可(べ)き地(くに)なり」と書かれておりまして、主権が天皇に在ると云うことは、はっきり日本国の根本的在り方即ち「日本国の理念」(霊的原型)として其処(そこ)に定められているのであります。

 

 

ところが現行の日本国憲法に於ては主権は国民に在ると云うことになっているのであります。此処に非常に重大な摺(す)り替えが行われているのであります。

 

 

それは「部分が先か、全体が先か」と云う問題に繋がって来るのでありますが、国民と云うのは国家を構成する部分であります。それなのに「主権の存する国民」というのは部分に主権が在り、部分が相談をして国家と云う全体を其処に造ったのであると云う唯物論的立場に立って日本国憲法は書かれているのであります。 

  

 

そこに根本的な間違いがあるのであります。

 

 

日本のどんな歴史を見ても、或いは戦後興って来た新しい歴史家、即ち神話を抹殺する歴史家の歴史の本を読んでみても、日本の建国が、国民が相談をして「吾々国民がバラバラにいたら外国から攻めて来た時に防ぐのに都合が悪いから、一つ団結して国家を造りましょう」と、国民と云う部分が相談をして日本国を造ったと云う記録は何処にも無いのであります。 

 

 

日本国なるものは、天照大神(あまてらすおおみかみ)の御意(みこころ)の中にその国の原型即ち日本国の理念が造られて、その理念の日本国が天降って来て、その理念の投影として具体的な部分が集り、其処に理念日本国の影なる現象日本国と云うものが顕れて来ているのであります。ですから全体が先でありまして、部分は後から全体の設計に従って集められたのであり、これが日本国の存在の根本的在り方なのであります。 

 

 

 

しかしこれは日本国の存在だけの問題ではないのでありまして、有りとあらゆるものは先ず心の世界に造られて、その姿の模倣として現実界のものは姿を現わしていると云うことになっているのであります。この国会の議員会館でも、やはり建築家の心の中に先ず完全に其の全体の姿が描かれた。全体が先であります。そしてその建築家の心の中の議員会館の建物の姿が因になってセメントだとか鉄材であるとか木材であるとか、いろいろの部分が最初に造られた全体の設計の模倣をして、現実化して出来たものである訳です。

  

 

全ての存在は、心の世界に描かれたところの理念的存在が因である。そしてその理念的存在は初めから「全体」として在るのです。ここに「全体が先か、部分が先か」と云う問題が起りますが、通俗的に言うと「鶏が先か、卵が先か」といわれている問題であります。鶏がいなかったら卵が出来ないし、卵がなかったら鶏が生まれて来ないのである。で、永遠に循環的な論議を繰り返して行くことになります。しかしながら、何も地球上に無かった時代に鶏が生まれて来る場合に卵がヒヨックリと砂の上にでも出て来て、それから鶏が出て来たと云うようなことはないのでありまして、これはやはり、「神」と言ってもいいが、大自然の「不思議なカ」が先ず最初に心の中に鶏の全体の設計即ち「理念の鶏」を造ったのであり、そして部分が集まって現実の鶏は出て来たのであります。

 

 

神様の心の中に描かれたところの鶏の「全体」の完全な姿の「理念」が天降って来て、現象的な肉体を構成する「部分」が、その「理念」の根本設計の姿に配列されて、具体的な鶏が出来たと云うことになるのであります。

  

 

東海道に豊橋と云う所がありますが、其処の薬学士の◯◯◯さんと云う人があります。この人は結婚なさいまして半年程したら、奥さんが両方の卵巣が絨毛上皮腫(じゆうもうじょうひしゆ)と云う病気に罹(かか)ったのです。…中略…  それで両方の卵巣を切除してしまったのです。ところがそれにも拘らず五人子供が産まれているのであります。

  

 

私はその話を聞きまして◯◯さんに「それは非常に珍しい話である。僕が戦争中に上海へ行った時に、或る日本婦人が卵巣を両方切除したけれども子供が産まれたと云う人がたった一人あった。しかし日本では初めてだ、君その手術をした産科婦人科の医者は生きておるかね」と尋ねたら「生きております」と言う。そこで私は「両方の卵巣を切除したけれども子供が産まれたと言っても誰も信じない。そんな事あるものかと言う人が多い。だからその手術をした医者が生きているのなら『確かにこの人の卵巣は両方切除しました』と云う証明書を書いてもらって置きなさい。そうでないと卵巣がなくても子供が産まれたと云う証拠にならない」と私は言ったのであります。

  

 

それから十何年か経ちまして今から四、五年程前に、私がブラジルヘ行く前でありましたが、豊橋で講習会を致しました。その時、◯◯◯さんが私を蒲郡の観光ホテルヘ案内するというので、◯◯さんと自動車に同車して走っていた時に、私は「◯◯さん、あなた奥さんを手術したあの産科婦人科の医者に証明書を書いてもらったかね」と尋ねましたところ、「先生、実は証明書を書いてもらいに行きましたらその医者が『確かに両方の卵巣を切除した。けれども一寸その卵巣の蔕(へた)を残して置いた。もし子供が産まれたのなら、その蔕から又卵巣が生えて完全な卵巣が出来たのでしょう』と、まあこう云うように言うんです」とのことでした。

 

 

 

そしたら、当時私の随行をしておりました産科婦人科の徳久克己博士が、「先生、それは産科婦人科の手術としては良心的な手術なのです。もし蔕も何も残さずに全部切除してしまったら卵巣のホルモンが出なくなる。女性ホルモンが出ない為に、それで欠落症状と云うものに罹ってノイローゼだとか、体の各所にいろいろの故障が起こって来るので、良心的な医者は卵巣を切り取る時に紙一枚程その蔕を残して置くのです。それが正直な良心的な手術なのです」と説明されました。

  

 

ところで紙一枚程その卵巣の蔕を残して置いたら、それがもとのような完全な卵巣になって出て来ると云うことはどう云う意味であるかと云うことなのであります。それは目に見えない世界に、言い換えると理念的存在としての完全な卵巣の原型が実在するのであって、その原型の投影としての現象の卵巣は幾ら切ってもその奥に完全な卵巣の理念(霊的原型)が在る限りに於て、幾度でも、その原型の投影として具体的な姿を現わして来るのであります。即ち卵巣の全体の理念が先に在って、卵巣を構成している分子原子或いは細胞と云うようなものは、その卵巣の完全な全体の理念に倣って後から造られて行くのであります。.

  

 

 

どうしても全体が先であって、その全体の中に根本的な設計が在り、肉眼に見える現象はその通りに模倣をするのであると云うことを現わしている訳なのであります。これは胃癌の手術などにも言えることであります。肉眼に見えるように出ている胃癌を幾ら切除しても、それが再発する、転移すると云うのは何故であるかというと、心の世界に胃癌の原型、もとの形が造られており、その心の世界に在る癌の霊的原型の模倣をして肉眼に見えるところの癌と云うものが出て来るのであると言えるのであります。ですから心の世界に癌を無くしてしまったら、現象世界に癌が出て来なくなると云う訳なのであります。吾々は心の世界に問題をもっていて癌にかかっている人を指導して手術なしに癌を消滅せしめた幾多の実例をもっているのであります。

 

 

 

 

◯  唯物論に立つ日本国憲法  

  

 

 

しかし残念ながら今の日本国の政治は、憲法そのものが唯物論的であります。唯物論は、原子・分子が集まって全体ができるという物の考え方に立脚するのであります。即ち部分が先きで全体が後であると言う。国民と云う部分が先ず在って、それが集まって国家という全体を拵(あつら)えているんだと云う唯物論的立場に立つのが今の日本国憲法であり、この憲法によって、現在の日本国及び国民の生活の在り方が決められているものでありますから、全てのことが唯物論的になっており政治もその通りなのであります。

  

 

さて、この唯物論と云うものは、存在を細かく分子に還元し分子を細かく分けて原子とし更にそれを細かく分けて素粒子にして、その素粒子と云うような小さいものが集まって全体が出来るのであると云う機械観的な世界観なのであります。それが結局日本国を如何に観るかと云う国家観と云うものにも現われており、そう云う考え方が基になって今の憲法が出来ているのであります。

 

 

 

この憲法は民主主義憲法と言われておりますが、民主主義と云うのは、最大多数の国民の幸福を目的とする政治的イデオロギーであると思うのであります。しかし最大多数の人間の幸福と云ってもその「人間の把(とら)え方」と云うものが唯物論的であり、その上に現憲法が成り立っているのであります。それには人間の幸福を護るように書いてありますけれども「人間とは何ぞや」と云う根本の把え方が唯物論的であり肉体主義なのであります。

 

 

 

ですから現憲法では例えば、その第二十四条には「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」とありますが、この文章の通りに解釈したら、婚姻即ち結婚は両性のセックスが合意したら、それのみに基いて成立すると云うのであります。

 

 

 

両方のセックスのみが快楽を得て幸福感を得られるなら、その結婚は成立すると云うのであり、其処には魂的なものは少しも書かれていないのであります。「両性の合意のみに基いて成立し」と「のみ」まで附いている処に注目すべきであります。だから両方のセックスの合意以上のもの、本当の愛と云うようなものであって結婚するなら、もう既に現憲法違反と云うことになる恐れがあるのであります。

 

 

 

況(いわん)や親に相談をしたりしたら憲法違反であると云うことになるのです。そう云うふうに肉体の快楽のみが中心になって結婚と云うものは成立するのであると書かれている。此処に明かに、現憲法と云うものは民主主義憲法とは言うが、肉体民主主義憲法であって決して人間を霊的存在として認めている憲法ではないと言うことが出来ると思うのであります

 

 

つづく

 

谷口雅春 著  「私の日本国憲法論」より

 

 

 

 

 

* 恐怖を消滅する言葉

 

吾れは恐れない。神はすべてであり給う。神以外のものは何も存在しないのである。神は善なるが故に悪は決して存在しないのである。神は護り給う。神は養いたまう。神は吾れを抱きたまう。神は吾れを愛したまう。如何なる禍も吾れに来らず、如何なる疫病(やまい)も吾が家には見舞わない。神は吾が行くところに常にその天使をつかわしたまいて吾れを看まもり給うのである。吾れは真理を自覚したるがゆえに自由である。吾れは神と偕(とも)に人生の行路(こうろ)を歩む。吾れは『善』と『真理』とのみを見る。吾れはそのほかの何物をも見ないのである。

 

神は渾(すべ)てでありたまう。吾れは終日(ひねもす)吾がたましいの内にかく叫ぶのを聞くのであるー吾れは心のうちに病いも貧しさも恐怖も考えない。吾れはただ真理と愛と生命とのみを考える。一切のものは神のものである。吾れは神の子である。それ故に一切のものは吾がものである。神の力のみが実在する力である。神のもち給う一切のものは吾がものである。吾れ一切のものを神より承けたるが故に、吾は全(すべ)てである。吾が父なる神に感謝いたします。

 

 

◯ 無いものはナイ

 

心を一転しなさい。現象はどうあろうとも、現象は結局うつり変る姿ですから気にとめないで、あなたの実相の完全さに心を転じなさい。実相のみ実在であって、現象は実在ではないから現象がどうあろうとも心にかけることは要りません。あなたの実相は神の子であって、今現に健康なのです。健康のみが実在なのです。

 

病気なんてものは、神が作らないから、どんなにアルかの如く見えてもナイのです。無いものは無いのです。それは夢の中で、病気にかかっている夢を見ているようなもので、その病気には実体がないのです。実体のない病気を実体があるなどと考えるのは妄想です。『般若心経』にはナイものをアルと思う「サカサマの想い」を「顛倒夢想(てんどうむそう)」と書いててあります。そんな「サカサマの想い」を捨てなさい。夢の中で物を見る心は、その心もニセモノです。ニセモノの心を「妄心」と言います。「妄心」を捨てなさい。

 

 

 

 

★ 今日は長いですね!笑!全文読まれた方ご苦労様です!笑!

 

ところで以前テレビで秋篠宮様がテレビで眞子さまの結婚について「両性の合意のみに基いて成立し」と言われたかどうかは記憶にありませんが、憲法は守らなければ・・・みたいな事を言われたのを記憶しています。これを書く前にネットで秋篠宮様のその時の文章を探しましたが見つかりませんでした。秋篠宮様の会見をアナウンサーが読んでいるのでは「両性の合意のみ」と言っていましたが、当時私しが感じたのは雅春先生の指摘のように、憲法違反になると話しておられるのを覚えています。