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◎ 無門關解釋

 

 

 

○ 第二十一則雲門屎橛(うんもんしけつ)

 

 

 

雲門因(うんもんちな)みに僧問(そうと)ふ、如何(いか)なるか是(こ)れ佛(ほとけ)。門云(もんいは)く、乾屎橛(かんしけつ)

 

 

 

無門曰(むもんいは)く、

 

 

雲門謂(うんもんいつ)つべし、家貧(いへひん)にして素食(そじき)を辨(べん)じ難(がた)し、事忙(こといそが)しうして草書(さうしょ)するに及(およ)ばず。動(やゝ)もすれば便(すなは)ち屎橛(しけつ)を將(も)ち來(きた)って、門(もん)を擡(さゝ)へ戸(と)をさゝふ。佛法(ぶつはふ)の興衰見(こうすゐみ)つべし。

 

 

 

頌(じゆ)に曰(いは)く、

 

 

閃電光(せんでんくわう)、撃石火(げきせきくわ)。眼(まなこ)をさつとくすれば、已(すで)に蹉過(しやくわ)す。

 

 

 

 

解釋(かいしゃく)

 

 

 

第十八則に「如何(いか)なるか是(こ)れ佛(ほとけ)」と云(い)ふ問(と)ひに對(たい)して「麻(ま)三斤(ぎん)」と洞山和尚(とうざんをしやう)が答へたことが、出てゐるが、雲門和尚(うんもんをしやう)は「乾屎橛(かんしけつ)」と云って答へたのである。

 

 

 

雲門(うんもん)は洞山(とうざん)の師(し)であり、雲門が「乾屎橛(かんしけつ)」と答へたことの方(はう)が先であり、洞山(とうざん)はその前轍(ぜんてつ)に習(なら)って答へたのである。「佛(ほとけ)とは何であるか。」「麻(あさ)の實(み)三斤(ぎん)です。」「乾屎橛(かんしけつ)だ。」どちらの答でも同じことである。

 

 

 

乾屎橛(かんしけつ)とは田舎に行くと、脱糞後(だつぷんご)に紙で拭(ふ)く代(かは)りに竹篦(たけべら)でこさげる所謂(いはゆ)る「糞掻(くそか)き篦(べら)」がそれである。 

 

 

 

「佛(ほとけ)」と云へば、吾々(われわれ)は兎(と)もすれば「明(めい)なること日月(にちぐわつ)の如(ごと)く、粧(よそほ)ひ瓔珞(やうらく)の如(ごと)く、三十二相(さう)八十種好(しゆかう)あり。一切處(いつさいしょ)に遍(へん)じ、大虚空(だいこくう)と等(ひと)し」と云(い)ふやうな普遍的理想的(ふへんてきりさうてき)な美辭麗句(びじれいく)を抽象(ちうしやう)して「佛(ほとけ)」だと考へる。

 

 

 

ーもっとも是(これ)もたしかに「佛(ほとけ)」には相違(さうゐ)ない。併(しか)しこれはあまりに抽象智(ちうしやうち)に墮(だ)してそのまゝ現實の役に立たぬ。吾等(われら)は、一切處に遍じながら、具體的に姿をあらはしたところの眞佛を欲するのである。

 

 

 

無限にして同時に有限であり、一切處に遍じて同時に具體的なる存在である。「佛(ほとけ)とは何(なん)ぞや」「天地(てんち)にみつる恵(めぐ)みなり」これでも間違(まちがひ)ではない。

 

 

 

佛(ほとけ)は實(じつ)に天地(てんち)にみつる恵(めぐ)みである。併(しか)しそれならその「天地(てんち)にみつる恵(めぐ)み」と云ふ其(そ)の「恵(めぐ)み」なるものは抽象的名辭(ちうしやうてきめいじ)であって眼(め)に見えませぬ。何方向(どちらむ)いても形(かたち)は見えず、據(よ)り所(どころ)はない。

 

 

 

そこで釋迦出生(しゃかしゆつしやう)の時代には、人類は釋迦(しゃか)そのものを具體的佛(ぐたいてきほとけ)として拜(はい)した。釋迦滅後(しゃかめつご)は、その具體性(ぐたいせい)を佛像(ぶつざう)に表現して禮拜(らいはい)したのである。佛像崇拜(ぶつざうすうはい)は、キリスト教の宣教師が攻撃(こうげき)するやうな偶像崇拜(ぐうざうすうはい)ではない。

 

 

 

普遍(ふへん)にして同時に具體的(ぐたいてき)なる佛(ほとけ)を禮拜(らいはい)せずにはをれないところの先驗的(せんけんてき)な要請(えうせい)が佛像(ぶつざう)を作らせたのである。併(しか)し、その佛像なるものは概(おほむ)ね三十二相(さう)を備(そな)へ、光明圓滿具足(けわうみやうゑんまんぐそく)の黄金身(わうごんしん)である。それは理想を佛像(ぶつざう)に表現したのであるから、そのやうな理想的形態(りさうてきけいたい)に製作するのは無理ではない。

 

 

 

しかし紫磨黄金(しまわうごん)の佛のみを「佛(ほとけ)」だと思ってゐると、それは偶像崇拜(ぐうざうすうはい)に墮(だ)して了(しま)ふのである。普遍なき具體のみを禮拜するとき、如何(いか)なる立派な形態(けいたい)を禮拜(らいはい)しても、それは偶像崇拜に墮(だ)して了(しま)ふし、具體なき普遍のみを禮拜(らいはい)するときそれは抽象智(ちうしやうち)に墮(だ)して了(しま)って用(よう)を爲(な)さぬ。

 

 

 

普遍にして具體なるものーを把握(はあく)するとき、具體(ぐたい)を見て其處(そこ)にあるところの普遍(ふへん)の恵(めぐ)みを見るとき、天地間(てんちかん)、如何(いか)なるものにも「佛(ほとけ)」を見ることが出來るのである。

 

 

 

洞山(とうざん)の「麻(ま)三斤(ぎん)」、雲門(うんもん)の「」乾屎橛(かんしけつ)ともに、具體(ぐたい)なる普遍(ふへん)を指(ゆびさ)してゐるところに力(ちから)があるのである。

 

 

 

さて、雲門(うんもん)の「家貧(いへひん)にして素食(そじき)を辨(べん)じ難(がた)し。事忙(こといそが)しうして草書(さうしょ)するに及(およ)ばず。動(やや)もすれば便(すなは)ち屎橛(しけつ)を將(も)ち來(きた)って、門(もん)を擡(さゝ)へ戸(こ)をさゝふ。

 

 

 

佛法(ぶつぱふ)の興衰(こうすゐ)見つべし」と云ふ評であるが、本當に腹が減ったら、どんな素食(そじき)でも美味しい。學者(がくしゃ)と金持(かねも)ちと暇人(ひまじん)とはあと廻(まは)しである。あまりに忙(いそが)しくて絶體絶命(ぜつたいぜつめい)の境(さかひ)に立てば草案(さうあん)など云(い)ふ人間的工夫をやってゐる暇(ひま)もなしに直(たゝち)に實際の事にあたり、そこに誠があらはれ、佛があらはれる。

 

 

 

「そのまゝ」である。「あるが儘にひたすら生きる」である。そこに一切の物に、一切の事に神を見、佛を見るに到るのである。人の卑(いや)しむ乾屎橛(くそかきべら)を持ち出して來てすらも拜(をが)む底(てい)の境地に達してこそ眞佛(しんぶつ)を見ることが出來るのである。

 

 

 

到(いた)る處(ところ)に佛法現成(ぶつぱふげんじやう)だが、それを見得(みう)ると見得(みえ)ざるとに佛法の盛衰(せいすゐ)があるのだ。更(さら)に頌(じゆ)して無門(むもん)は云ふ。到る處に佛法現成だが、それを見るには閃電(せんでん)の光の如(ごと)き、撃石(げきせき)の火の如き、機敏(きびん)なる心の眼(まなこ)が開いてゐなければならないのである。

 

 

 

眼(まなこ)をまじろぐやうなことでは、見たと思った瞬間、蹉過(よこへそ)れて了(しま)ふぞと云ふのが、「閃電光(せんでん)、撃石火(げきせきくわ)。眼をさつとくすれば、已(すで)に蹉過(しやくわ)す」の大意(たいい)である。

 

 

 

 

(完)

 

 

 

谷口雅春著「無門關解釋」第二十一則雲門屎橛(完)

 

 

 

 

 

☆ 今日は第二十一則 

 

「佛(ほとけ)とは何であるか。」「麻(あさ)の實(み)三斤(ぎん)です。」「乾屎橛(かんしけつ)だ。」どちらの答でも同じことである。

 

仏とはクソかきべらというと言う事です。笑!

 

 

吾等(われら)は、一切處に遍じながら、具體的に姿をあらはしたところの眞佛を欲するのである。

 

無限にして同時に有限であり、一切處に遍じて同時に具體的なる存在である。

 

普遍(ふへん)にして同時に具體的(ぐたいてき)なる佛(ほとけ)を禮拜(らいはい)せずにはをれないところの先驗的(せんけんてき)な要請(えうせい)が佛像(ぶつざう)を作らせたのである。

 

と書いてあります。ただの偶像崇拜ではないと云う事です。

 

普遍にして具體なるものーを把握(はあく)するとき、具體(ぐたい)を見て其處(そこ)にあるところの普遍(ふへん)の恵(めぐ)みを見るとき、天地間(てんちかん)、如何(いか)なるものにも「佛(ほとけ)」を見ることが出來るのである。

 

それと

 

學者(がくしゃ)と金持(かねも)ちと暇人(ひまじん)とはあと廻(まは)しである

 

と書いてあります。学者、金持、暇人はあとまわしとは、このような人は神・仏をまず求めないので、この人たちに教えを説いても聞かないと言う事です。笑!だから余命後何ヶ月とか経営者で自転車操業している人たちは必死だから教えを聞くのも真剣です。

 

 

到る處に佛法現成だが、それを見るには閃電(せんでん)の光の如(ごと)き、撃石(げきせき)の火の如き、機敏(きびん)なる心の眼(まなこ)が開いてゐなければならないのである。

 

 

だから医学博士で産婦人科の徳久先生は死にそうな人は助かるが、そうで無い人は中々助からないねと言われました。余命宣告された人、倒産しそうな人は助かる確率が多いと云う事です。笑!

 

生きる死ぬかの人は教えを聞くのも実践するのも真剣ですが、病気が治って健康になった!経営が軌道に乗って繁盛した!はいさいならではこの人たちは再び同じ事を繰り返すかも知れないので、自分が助かったら人に伝える、喜びを幸せを、他人に伝える事を教える事により多くの人が幸せになり、又その徳で、健康が事業が益々繁栄する事を教えなければならないと云う事です。

 

それから今日雅春先生のテープをyuutyuubuで聞いていましたらこの教えを聞いている人たちは、前世からの浅からぬ縁で結ばれてる居て今自分で聞いているのではなく、導かれて聴いているようですよ!