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③ 無門關解釋(むもんくわんかいしゃく)

 

 

○ 第一則(そく) 趙州狗子(でうしうくし) (二)

 

趙州和尚(でうしうをしやう)、因(ちな)みに僧問(そうと)ふ、狗子(くし)に還(かへ)って佛性(ぶつしやう)ありや也無(またなし)や。州云(しういは)く、「無(む)」

 

無門曰(むもんいは)く、

 

「參禅(さんぜん)は須(すべか)らく祖師(そし)の關(くわん)を透(とほ)るべし、妙悟(めうご)は心路(しんろ)を窮(きは)めて絶(ぜつ)せんことを要(えう)す。

 

・・・省略・・・

 

 頌(じゅ)に曰(いは)く、

 

狗子佛性(くしぶつしやう)、全提正令(ぜんていしやうれい)、纔(わず)かも有無(うむ)に渉(わた)れば、喪身失命(さうしんしつみやう)せん。

 

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 解釋

 

昨日のところです。

 

・・・省略・・・

 

甲が乙を擲(なぐ)つたときに、甲の鐵拳(てつけん)が乙の頬面(ほつぺた)に觸(ふ)れたーそして其處(そこ)に痛みの感覺が起つたとするならば、「甲の運動」が何故「乙」に傳(つた)はるかと云ふ問題が起こるのである。

 

「甲」と「乙」とが全然別物ならば「甲」の衝撃が「乙」に衝動として傳はりやうがない。近代の科学では物質の分子と分子とは、大いさの比率から云ふならば天體と天體との間隔ほどに相互の間に空間があると云ふ事を明(あきら)かにした。

 

 

 

つづき

 

 

 

彈丸(だんがん)が或る目的物を傷けるのも、彈丸と目的物とは、物質の分子相互は絶對に相觸(あひふ)れないでゐながら目的物を傷けるのであるから。是(これ)は「心」の問題である。

 

 

 

第二次大戦に參戦した人の談(はなし)によると、敵が抗戦の士氣旺盛(しきわうせい)な時分には遠くに落ちる彈丸でもその發射する彈丸の響が此方(こちら)の腹に強く響く。敵の負け足が付いて來たときにら近くに落ちる彈でも此方の腹に響かない。

 

 

 

敵彈はただの物質ではなく、敵の抗戦の士氣の具象化であることがこれでも判るーと云ふことである。「彈丸が士氣の具象化」であるとは、彈丸は物質ではなくして「心」であると云ふことである。「心」と「心」との戦ひが戦争なのである。ユネスコは戦争は先づ心の世界に始まるといふ。世界に敵對の心がなくならない限り世界平和は來らない。

 

 

 

先づすべての人類は、"神の子"であり互に"一つ"の生命であり、彼は我(われ)であり、我は彼であるといふ一體感(いつたいかん)を得ることが世界平和の根本となるもので、心に一體感がなければ、いつまでも泥沼の爭ひがつづくのはヴェトナムやコンゴの現況を見ればわかるのである。併し一旦戦争が起れば、それは武器の戦ひのやうに見えても「心」と「心」との戦ひであるから、戦機旺(さか)んなれば旺んなるほど、味方の犠牲の数が減ずると云ふ意味がある。

 

 

 

さて、或る僧が「狗子(いぬころ)に佛性があるか無いか」と趙州和尚(でうしうをしゃう)に問うたところが、趙州和尚は「無」と答へたと云ふのである。その趙州和尚は何故「無」と答へたのか考へて見よと云ふのが第一則の公案である。

 

 

 

 

色々の意味に此の「無」がとれるのであって、そこに求法者(ぐはふしゃ)の悟りの深さが千差万別(せんさまんべつ)してあらはれるのである。

 

 

或る人の解釋が「浅い」と思って嗤(わら)ってゐると、猿の尻笑(しりわら)ひになることもないでもない。言葉の表現では「浅い」「深い」などと猥(みだ)りに評することは出来ないのである。

 

 

そこで「參禅(さんぜん)は須(すべか)らく祖師の關(くわん)を透(とほ)るべし」と無門慧開和尚(むもんゑかいおしやう)は一喝(いつかつ)したのである。

 

 

祖師と云ふのは先輩の僧侶(そうりょ)だと思ってゐる人もあるらしいが、先輩の僧侶ではない。だから「驀然(まくねん)して打發(だはつ)天を驚(おどろ)かし地を動ぜん。

 

 

關將軍(くわんしやうぐん)の大刀(だいたう)を奪(うば)ひ得て手に入(い)るが如く、佛に逢(あ)うては佛を殺し、祖に逢うては祖を殺し」と云ってゐるのである。

 

 

 

師に隨(つ)くことが「祖師の關を透る」ことであるならば、禅門の萬僧悉(ばんそうことごと)く悟ってゐるべき筈であるが、依鉢(いはつ)を傳(つた)へられると稍(しょう)する悟りの境(きょう)に達した者は、極僅(ごくわづ)かな数に過ぎない。

 

 

 

祖師の關」とは「眞理」の關所(せきしょ)である。眞理こそ唯一の祖師であって、そのほかの「祖師」は悉(ことごと)く僞(いつはり)の祖師に過ぎない。

 

 

 

そこで「祖に逢うては祖を殺す」と云って眞理を無(な)みし、師恩(しおん)を無みし舊師(きうし)の惡口(あくこう)を云って、「自分」のみ鼻高々として自己吹聴(ふいちやう)する者あるならば、彼はまだ祖師を殺してゐないー自分を「祖師」としてゐるのであって、祖師の殺し方が足りないのである。

 

 

 

自分を祖師とすること」さへも殺さなければならない。ーこれが否定の妙用(めうよう)である。

 

 

「狗子(くし)に佛性ありや?」は、やがて又、「人に祖師ありや?」の公案にも通ずる。「僧問(そうと)ふ  ー 人に祖師ありや?州(しう)云はく、無(む)」と書き直しても好いであろう。

 

 

これは祖師だけを否定したのではない。師なんてないものだ!斯う否定して鼻高々となったとき何時の間にか自分が「師」になってゐる。人もない、祖師もない、祖師もないと云ふ者もない。どこまでも否定はその極の極まで進まなくてはならないそこで「妙悟(めうご)は心路を窮(きは)めて絶せんことを要す」である。

 

 

 

心路を絶してギリギリの所まで達すれば否定するに否定し得ない究極實在に達する。さうしてただ真理のみあることが解る。光明一元(こうみやういちげん)である。

 

 

 

さう判って見れば、萬物祖師ならざるはない。その儘(まま)、師を師とし、感謝の心湧き出(い)で、報恩の行(ぎやう)おのづから調(ととの)ふのである。

 

 

そこに『生命の實相』卷頭(くわんとう)の神示

 

「汝ら天地一切のものと和解せよ。・・・皇恩に感謝せよ。汝の父母に感謝せよ。汝の夫又は妻に感謝せよ。汝の子に感謝せよ。汝の召使(めしつかひ)に感謝せよ。一切の人々に感謝せよ。天地の萬物に感謝せよ。その感謝の念の中(うち)にこそ汝はわが姿を見、わが救を受けるであらう」が成就するのである。

 

 

 

そのまま有りの儘(まま)有難くなるのである。私はこれを「三百六十度囘轉(かいてん)」と名附(なづ)けた。

 

 

 

某(ぼう)佛教新聞はこれを評して「生長の家は、一時天動説が地動説に變(かは)ったところの人生觀のコペルニクス的轉囘と稍(しょう)してゐたが、近頃は三百六十度囘轉と云ってゐるのは腑に落ちぬ!百八十度囘轉なら全然別の方向を向くだらうが、三百六十度囘轉では元(もと)の儘(まま)の方向に居直(ゐなほ)って了(しま)ふでないか。

 

 

この點(てん)谷口先生に御示教(ごしけう)を乞ふ」と云ふやうな谷口先生なる先生の文字も「先生と云はれるほどの馬鹿でなし」位(くらゐ)の揶揄的(やゆてき)意味で書いてゐるのであるが、

 

 

 

生長の家の轉廻(コンヴァーシヨン)が百八十度で收(をさ)まらないのは、忠義や孝行や今まで尊ばれてゐた道徳が反對に一蹴(しう)せられるのではなく。在來のそのままで其のそのままが唯有難く、感謝して受け、奉行し得(う)るやうになるからである。

 

 

 

赤が白に變り、白が赤に變るのなどは百八十度囘轉であるが、中道實相(ちゆうだうじつさう)ー そのままに萬物の御恩が拜めるやうになるは ー 三百六十度囘轉を必要とするのである。

 

 

 

 

つづく

 

 

ここから明日です。少しだけ・・・

 

つづき

 

そこで祖師の置いた關所(せきしょ)とは「無」の關所である。「如何なるか是祖師(これそし)の關(くわん)、只者(ただこ)の一箇(こ)の無の字、乃(すなは)ち宗門(しゅうもん)の一關(いつくわん)なり。

 

遂にこれを目(なづ)けて禅宗無門關と曰(い)ふ」のがそれである。

 

そこで吾々(われわれ)は此の「無」の關所を透過(とうくわ)しなければならぬのである。

 

關所であるから、關所に引っかかつてゐるものでは駄目である。・・・省略・・・

 

「無」を透得過した者ではない。「無」は眞理に到る關門であつて眞理そのものではない。・・・省略・・・

 

 

 

 

谷口雅春著「無門關解釋」

 

 

 

 

 

☆ 全部太字にしたいですね!この本が出た当初色々読み方が違うと文句があったようですが、そのうち禅宗でも使ってると聞いた事があります。

 

★ ようこんな難しい本をぼろぼろになるまで私は読んだという事です!笑!今はよめません、読む気にもなれないですね!自分で読んでいるようで読まされていると聞いたことがあります。皆さんもこれに惹きつけられるのは読まされているのでは?笑!