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無門關解釋

 

 

はしがき

 

 

 

この書は太平洋戦争中に書きおろしたものである。そして長い間絶版になってゐた。併(しかし)し近頃になって、しきりに覆刻(ふくこく)して欲しいといふ要請が各所(かくしょ)からあるのである。その意味は本書には永遠に価値ある眞理が説かれてゐるといふ意味らしい。

 

 

 

今度加筆しようと思って讀み直してみて、自分ながら深い眞理が興味ある姿で表現されてゐるので驚いた。眞理の例話(れいわ)として挿入された事件が戦争中のもので現時(げんじ)の讀者には興味がなささうなのを加筆するほかには殆ど書き換へる必要がなかった。眞理は戦前も戦中も戦後も變るものではない。

 

 

 

今も私は天皇信仰を持ちつづけてゐるのであるが、天皇を仰慕仰敬(ぎやうぼぎやうけい)するやうな言葉を述べると笑ふやうな人たちが多い中で、やっぱりこの本を出版したいといはれる。その戦中に書いた"はしがき"には次のやうな事が書いてある。眞に興味があるから讀んでほしい。

 

 

 

「天皇への帰一(きいつ)の道すなはち忠(ちゅう)なり。忠は天皇より出でて天皇に帰(かへ)るなり。天皇は一なり。ハジメなり。一切のもの天皇より流れ出で天皇に帰るなり。わが『忠』、わたくしの『忠』、我輩(わがはい)の『忠』などと云ひて、『我』を鼻に掛ける『忠』はニセモノなり。私なきが『忠』なり。

 

 

 

「天皇は天照大御神(あまてらすおほみかみ)と一體(いったい)なり。天照大御神は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と一體なり。斯(か)くして天皇はすべての渾(すべ)てにまします。『忠』の本源は天之御中主神の『御中』の理念より發して再び天之御中主神に復帰(ふくき)するなり。天皇を仰ぎ、天皇に帰一し、私なきが『忠』なり。わが『忠』と誇(ほこ)るとき、もうそれは『忠』にあらず、『我(が)』となるなり。

 

 

 

すべての宗教は、天皇に帰一するための前提として存在の意義があるなり。すべての宗教が、『我』を捨つるを説き、『無我』を説き、富を捨つるを説き、『無所有』を説くは、『この世は何にも無いものだから諦(あきら)めよ』と云ふ意味に非ず。すべてのものは、天皇の一元(いちげん)より發現することを教えたるなり。すべての森羅萬象(しんらばんしやう)天皇の大御(おほみ)いのちの顕現(けんげん)ならざるはなきなり。天皇を説かず、仰がず、『無』のみを説く宗教は準備時代の宗教に過ぎず。

 

 

 

わたくしの『生命』を愛護(あいご)すること勿(なか)れ。『生命』が尊きは天皇の大御いのちの流れであり、岐(わか)れであるが故に尊きなり。寸時も、『天皇のみたまのふゆ』なることを忘るべからず。『天皇のみたまのふゆ』なることを忘れるとき、人は悪逆無道(あくぎゃくむだう)の迷妄(めいまう)の徒となるなり。

 

 

 

「愈々(いよいよ)日本も政治新體制の曙は近づけり。一切の政黨(せいとう)は解黨せり。新たに黨を結ばんがための解黨にては意味を成さず。この事膽(きも)に銘ずべきなり。擧國一黨(きょこくいっとう)なりとも、黨のある限りは『無我』に非ざるなり。大みごころあるのみなり。大みごころへの無我隨順あるのみなり。若し新黨を樹(た)つるとも、新政體(しんせいたい)を建つるとも一點(てん)の『我』ありて、大みごころを蒙(くら)ますとき、天皇の御徳(おんとく)を晦(くらま)して、自分の都合をはかる無道の徒となり了(をは)るなり。

 

 

 

「無道とは、『道』の無きことなり。道は宇宙にミチてあれども、『我』のあるところには、道は遮(さへぎ)られてあらはれぬなり。大海原(おほうなばら)に海水は滿(み)ちたれども岩石の固まりたるところには海水は滿ちをること能はざるが如きなり。『我』がなくなりて、はじめて『道』は生きるなり。私の『善』、私の『道』、私の『宗教』などと云ふものあるべからざることなり。

 

 

 

すべて宗教は天皇より發するなり。大日如来も、釋迦牟尼佛も、イエスキリストも、天皇より發する也。ただ一つの光源より七色の虹が發する如きなり。各宗の本尊のみを禮拝して、天皇を禮拝せざるは、虹のみを禮拝して、太陽を知らざる徒なり。すべてのもの太陽にて生くるが如く、すべてのもの、天皇の大御(おほみ)いのちにて生くるなり。

 

 

 

「生長の家が、一宗一派を樹てざるは、宗派と云ひて黨を樹て、閥(ばつ)に籠(こも)りて、相争ふことが『忠』に非(あらざ)ることを知る故なり。特に『一宗一派に非ず』と云ふことを教義の『七つの光明宣言』に記入して、宗教であることを許されしは、 文部黨局の賢明なる處置なり。文部黨局が一宗一派にあらざる宗教をみとめたるなり。宗教が正しくなりたるなり。すべての宗教は私のものにあらざるなり。すべてを天皇に帰一し、天皇に奉還し奉(たてまつ)るなり。

 

 

 

「宗(しゅう)はオホモトなり。天皇なり。すべての教(のり)も則(のり)も範(のり)も矩(のり)も規(のり)も法(のり)、悉(ことごと)くスメラミコトより發するなり。宗教が宗派と云ふものに立ち籠りて、宗祖と云ふ一人の國民に過ぎざる人間を尊崇(そんすう)するは邪道なり。されば我は夙(つと)に喇叭(らっぱ)に過ぎずと云ひたるなり。すべての宗祖は喇叭に過ぎざるなり。宇宙の大教祖は、天皇にてあらせられるなり。ミチとノリとは悉く、スメラミコトより出づればなり。

 

 

 

「釋迦在世のとき、金波羅華(こんぱらげ)を粘じて衆に示すに、迦葉(かせふ)のみ微笑す。金波羅華は『空』の象徴に非ず、宇宙がコスモスであり、中心帰一である象徴なり日本國體の象徴也。迦葉のみ微笑す、とは悲しいかな。ほかの大弟子皆解せざる也。今の佛教者はいかほど金波羅華の秘密を解せりや。佛教を以(もつ)て『空』を説くとなす者、百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)に坐する底(てい)の者なり。百尺竿頭に達せざる者よりは優れり。されど『空』の百尺竿頭より進一歩(しんいっぽ)して、中心帰一世界を見ざるものは、外道の佛教にして、日本佛教にあらざるなり。

 

 

 

東大寺の大佛は、中心帰一の蓮華藏世界を彫刻にあらはせるなり。中心座にましますは、光明遍照者(ヴェーローシヤナ)にましまして、それを守護し奉るために、千葉(せんえふ)の蓮華その御足の下(も)にありて、各々の蓮華に悉く釋迦牟尼佛ゐまして、光明遍照者の御徳(おんとく)を讚(たた)ふるなり。ヴェーローシヤナと云ふ梵語(ぼんご)をば、大日如来などと、佛教が如来の如く譯(やく)したるは誤謬(ごびう)にはあらざれども、人をして外國の佛様の如く誤解せしめたるや久し。 

 

 

 

「ヴェーローシヤナとは、單に『光明遍照(こうみょうへんぜう)』の意(い)なり。宇宙の中心座に在(ましま)す『光明遍照』なり。畏(かしこ)くも天照大御神にましますなり。天皇は天照大御神と一身にましますが故に、釋迦は、天皇信仰を教へたるなり。それを知らずして、迦葉のみ微笑す。善い哉(かな)迦葉微笑せり。今は日本人悉くが微笑せざるべからざる時なり。天皇信仰を知らざるべからざる時なり。今はすべての宗教が、天照大御神を禮拝すべき時なり。そのほかに宗教ある筈はなきなり。」

 

 

 

派閥や黨派で到る處に爭(あらそ)ひが見られる現代に、この戦中に書いた序文は頂門の一針のやうな氣がするのである。みんな野郎自大、「わしが」「わしが」で爭ってゐて、その爭ひが終熄(しゅうそく)しないのは、無我になって宇宙の中心眞理に帰一しないからである。しかし「眞理」と稍(しょう)する抽象的なものに帰一しようとすると、眞理は肉眼には見えないから、自分の主觀で勝手な主義を樹て理想を描き、相衝突(あひしょうとつ)してまた停止するところを知らない。

 

 

 

そこで現實世界に宇宙の眞理・實相が地上に天降って顯現する必要があるのである。それがキリストの説いた「神意(みこころ)の天に成るが如く地に成る」ことである。その時その無私絶對愛の宇宙の中心眞理の人格的顯現が地上に顯現しなければならぬのである。そのやうな人格者を地上に求めるとき、キリスト教ではキリストの再臨といふ形でそれを表現しようとしてゐるし。佛教では彌勒下生(みろくげしょう)といふ形でそれを表現しようとする。

 

 

 

しかし即今(そくこん)キリスト何處(いづこ)にありや、彌勒いづこにありや、ただ理想として心に描くだけでは抽象概念に過ぎないのである。私は無私絶對愛(むしぜったいあい)の宇宙の中心眞理の人格的表現を抽象概念ではなく具体的に生ける人格として天皇に於いて見出さんとするものである。

 

 

 

それが眞實であることは終戦時の天皇の絶對無私の愛の行蹟がこの世界を戦火の地獄から救ひ出した事實によってラスティファイせられてゐるのである。兎(と)も角この本を讀んで私の考へが間違ってゐるか正しいか沈思默考(ちんしもっこう)して頂きたい。

 

 

 

昭和三十九年十一月一日

 

 

谷口雅春 識(しるす)

 

 

 

 

 

☆ いよいよ今日から無門関解釈です。

 

医学博士で産婦人科の徳久克巳先生は帝国ホテルに毎月社長さんを集めて真理の講演をされていましたが、段々集まりが悪くなり、あまり簡単な話はあきられるので、難しい無門関をやられたら凄く集まったようです。実際この無門関は奥深くひきつけられます。私しの無門関解釈の本はボロボロになっています。笑!興味ある方は既に過去記事で掲載していますので読み進んで見て下さい!