◎ 最高の幸福を得るには

                       藤原敏之先生
                       「すべてを癒やす道」より

○ 生長の家は過去・現在・未来を救う

 

私は若い頃から『人生とは何か?』『人生の目的とは一体何であろうか?』という根本問題について考えぬき、それを発見するためにあらゆる努力を続けたのですが、どうしてもわからず、長い間悩み続け解決出来ずにいたのであります。
 

 

 

ところが、今から三十一年前に、有難い御縁をいただき、この世界最高の教えであり、絶対の真理である、「生長の家」のみ教えを体得する機会に恵まれ、救われた一人であります。

 

 

「生長の家」のみ教えが、どこがどんなにすばらしいかといいますと、その目的とするところが「人生の目的」と一致しているからであります。゛人生の目的゛と゛宗教の目的゛とが一致しないようでは、それは人間に縁のない教えとなり、人間社会においては発展しないのであります。

 

 

宗教も経済の原理と同じで、求めに応ずる程度にしたがって、発展するのであります。

 

 

宗教を大きく分けますと、何千年も前から続いている仏教やキリスト教などにみられる既成宗教もあれば、もう一つは明治維新以後に生れた新興宗教もあります。そしてその中には、救いを未来(死後)にかけるものと現世の救い、現世に御利益信仰とがあります。

 

 

救いを未来にかける宗教では、「宿世・前世の悪業のために、今世では苦しむほかはない」「今世での救いは叶わない」「信心するものだけが未来、極楽天国に生まれることができる」と説いているのであります。
 

 

 

また、一方の現世に於いて利益を求める方では、その宗教で拝む御本尊様をおまつりして、信心し、一心におすがりすれば、おかげを頂き、困ったことや、心配をとりのぞいてもらえるというような現世利益を種に、いろいろの不安や悩みにおののく大衆を魅きつけていこうとするものであります。

 

 

しかし、このどちらの救いも、相対的な救いでありまして、真実の救いとはならず、本当の安心を得ることは出来ないのであります。

 

 

「生長の家」は、未来(死後)の救いだけが目的でもなく、又現世の幸せだけが得られるというのでもなく、過去も現在も未来も三世を通しての救いであり、根本的な解決法なのであります。部分的な救いでなく、絶対的な救いであります。そこが生長の家の本当にすばらしいところであり、超宗教といわれるところであります。

 

 

どんなに高尚な理論であっても、本当の救いを現わすことのできないような空理空論では、゛無用の長物゛として、世の中から葬り去られるほかはないのであります。
 

 

 

 

 

○ 誰でも幸福になりたいのに…


さて゛人生の目的とは一体何であるか?゛とよく考えてみますと、ちょっとわかりにくいのであります。毎日三度三度食事をして、その上間食までするから、人生の目的は食うことにあるのかと思うと、どうもそうでもないらしいのであります。

 

 

毎日七時間も八時間も寝て、その上昼寝までする人があるから、人生の目的は寝ることにあるのかと思うと、どうも寝ることでもないらしい。
 

 

年頃になると、男女互いに異性が恋しくなり、何となく関心が強くなり、だんだん好きになり、ついに結婚し、何人か子供を産み、子供を育てることに追いまわされ、ついに年老いて死んでいくので、人生の目的は子供をつくることかと考えてみると、どうもそうでもないらしい。

 

 

ではいったい人生の目的は何か?とよくよく考えてみると、それは幸福の追求にあるということがわかるのであります。

 

 

なぜかといいますと、゛幸福の追求゛こそは万人共通であり、一人の異論を唱える人もいないからです。

 

 

私はいろいろな人に、「あなたは幸福になりたいですか?」とききますと、みんな「当たり前だよ」といって怒られます。「ははあ、やっぱり幸福になりたいのだなナー」と思って、こんどは、「あなたはさぞかし幸福でしょうねー」とききますと、また怒られます。「冗談じゃない。私ほど不幸なものがまたとこの世にあるかね」と。

 

 

また。別の人に「あなたは幸福でしょうね」ときくと、たまに「まあまあですわ」という人があります。また、ほんの少しの方が、「ハイ幸福です」といわれるから゛それはよかったナー゛と思っていると、後から、「けれども」といわれます。けれどもがつくときは゛幸福とは申しましたけれども、ほんの少しだけ困ったことが…゛というときにつけることばであります。
 

 

 

このように、すべての人が幸福を切に求め、願っているにもかかわらず、大部分の人が不幸であり、ほんの少しの人が゛まあまあ゛つきや゛けれども゛つき位しかないということは、一体なぜでしょうか。ここに問題があるのです。

 

 

 

○ 不足を満たすだけでは幸福になれない


それは、幸福を求め、願いながらも゛幸福゛なるものの実体、本当の幸福とはどういうものかを知らないからであります。それは゛幸福なるもの゛の影、いいかえると幸福になるための条件を追い求めているだけだからなのです。

 

 

たいていの人は゛幸福とは条件である゛と思いちがいしているのであります。病弱の人は゛健康゛を願い、経済的に貧しい人は゛物質的な豊かさ゛を追い求め、地位のない人は゛地位を…゛という具合に、何か不足しているものをさがしては゛これではまだ不幸だ゛と不足した条件を満たすことのみに、きゅうきゅうとして、足ることを知らず、゛不幸だ゛不幸だ゛と嘆くのであります。これでは幸福になりようがないのであります。

 

 

人間が宗教や信仰を求めるのは、その根底に゛幸福゛を願うからでありますが、宗教ではこの幸福な生活ができる世界を、極楽とか、天国とかいっております。仏教信者は極楽行きを願って信心し、キリスト教徒は天国行きを願って信仰するのであります。

 

 

極楽とか、天国とかいうところは、どんなところかといいますと、困るものや苦しむものがぜんぜんないところの理想の世界をいうのであります。楽しみだけの世界であります。

 

 

 

一般の人は゛一体そんな世界があるのだろうか?゛と納得ゆかない方が多いだろうと思いますが、生長の家のみ教えは、地上天国建設が目的であり、単に理想として掲げただけの夢のようなものではなく、実現せずにはおかないという絶対的な悲願であり、また事実、着々と実現しているのであります。

 

 

 

理想としてかかげ、心に描くだけなら簡単で、いうだけなら何でもありませんが、そんなものには何の価値もありません。本当に救いが実現し、証明せられ、裏づけがあってこそ、本当の値打ちがあります。

 

 

生長の家のすばらしさは、このようなところにもあります。死んでから極楽、天国では、気休めにはなり、無いよりはましですが、あまり現実的な価値はありません。

 

 

それでは、一見実現不可能と思われることがどうして可能となり、救いが実証せられるのであるかということを、谷口雅春先生のお説き下さる「生命の実相」の真理に従って、のべてみたいと思うのであります。

 

 

つづく

 

 

 

 

 

☆ 昨日の夜帰って来ました。今日から何を掲載しようか考えましたが、今まであまりにも難しいのをやりましたので、取り敢えず読みやすいのを色々掲載してそれからにしようと思います。今日は藤原先生の御本から、この先生は真理を求めてあらゆる宗教をやられて「生長の家」の御教えに触れて悟られて、オシが喋り、メクラが見えるようになりとたくさんの奇跡をだされました。親から気狂いになったと言われるくらい悩まれた先生ですから読みやすく迫力がありますね!