◎無門關解釋

 

 

第二十二則迦葉刹竿(かせふせつかん)

 

 

迦葉因(かせふちなみ)に阿難鬥(あなんと)ふて云(いは)く、世尊(せそん)より金欄(きんらん)の袈裟(けさ)を傳(つた)ふる外(ほか)、別(べつ)に何物(なにもの)をか傳(つた)ふ。

・・・以下省略・・・

 

 

 

無門曰(むもんいは)く、

 

若(も)し者裏(しやり)に向(むか)って一轉語(てんご)を下(くだ)し得(え)て親切(しんせつ)ならば、便(すなは)ち靈山(りやうぜん)の一會儼然未散(ゑげんぜんみさん)なることを見(み)ん。 ・・・以下省略・・・

 

 

 

頌(じゆ)に曰(いは)く、

 

問處(もんじょ)は何(なん)ぞ答處(たつしょ)の親(した)しきに如(し)かん。

・・・以下省略・・・

 

 

 

 

 

解釋(かいしやく)

 

 

昨日の終わり

 

靈鷲山(りやうじゆせん)で釈迦が金波羅華を拈(ひね)って、中心歸一の世界を示された。それが「ハイ」と素直に返事した者裏(このてん)を眼をひらいて見て、此處が悟りだと親切に、悟りに到(いた)る一轉語を下し得たならば、此處にその釈迦を中心とせる靈鷲山の集りが、儼然としてそのまゝあるのも同じだと云ふのである。

 

 

 

 

つづき

 

 

由来、日本人は「無我」に於(おい)てはすぐれたる民族であって、西洋流で云ふならば自己犠牲(self sacrific )と云って「自己」を先づ肯定して置いてから、自己を犠牲にすると云ふのであるから、自己分裂と自己相剋(じこそうこく)との自己葛藤(じこかっとう)を免れない。

 

 

 

印度思想に於ては西洋思想よりも優れてゐて「無我」と云ふ。犠牲にすると云はず「無い」と云ふのである。併し「無我」なる熟語の存する所以(ゆゑん)は矢張り「我」を一度肯定して、それに「無」を冠した如き嫌ひがある。

 

 

 

ところが、日本民族には「自己」も無ければ、従って「自己」を犠牲にすると云ふこともない。「我」もないから「無我」と説く必要もない。そのまゝ素直である。是を「惟神(かんながら)」と云ってゐる。惟神(たゞかみ)のみ在(ま)しますのである。

 

 

 

「我」を“神”に全托すると云ふやうな「我」もないのである。唯「ハイ」のみがある。たゞ絶對歸一があるばかりである。「私が神に全托する」のではなく、神のみが獨在(どくざい)し、神のみこゝろの成就する處に、地上天國が顕現する。

 

 

 

日本人の本性はあらゆる場合に「私が」と云はない。西洋人なら I am going to school(私は学校へ行きます)と云ふところを、その「私が」を云はないで「学校へ行きます」と云ふ。日本人にとっては「私が学校へ行く」のではない。「学ぶ」と云ふ理念が顕現して「学校へ行く」と云ふ形となってあらはれるのである。

 

 

 

「私が忠をつくす」のではない、唯「忠」と云ふ理念が顕じて、「忠を盡す」行為となってあらはれる。忠は㊥の心であって、○を貫く眞理(まこと)である。その眞理が其處に顕現したのであって「私が忠を盡す」と云ふことはあり得ないのである。

 

 

 

「私が忠を盡したのに、誰も稱(ほ)めてくれない」とか、「私が仁(じん)を盡したのに誰も表彰してくれない」とか云って不平を云ったり、小言を云ったりするのは本來の日本人ではないのである。日本語を西洋語に直さうと思って第一に驚くことは、主格が無い文章が多くて、その直譯では殆ど全く西洋語では文章を成し得ないことである。

 

 

 

これは日本人は「私が」のない國民であって、無我歸一たゞ理念成就の國民である。「私が」のないところ直(たゞち)にそこが天國である。「私が」のある處直(ところたゞち)にそこが地獄となる。折角善い行為や、慈善を施して置きながらも「私が」が残ってゐるときには、「私が斯(か)うしてやったのに、彼は斯(か)うしてやったのに、彼は斯(か)うしてくれぬ」などと直(たゞち)に葛藤(かつとう)が生じ、憎みが生じ、怨みが生じ、地獄が生ずる。

 

 

 

だから「ハイ」の心がなく「私が」、「私が」と云ってゐるならば、過去久遠(くわこくをん)の毘婆尸佛の時代から佛の説法を聴き、佛弟子として愛されてゐてさへも、今に到るも地獄ばかりを現じて、「彼岸」の世界が那邊(いずこ)にあるか悟ることは出来ないのだ。 

 

 

 

無門の頌(じゅ)「問處(もんじょ)は何(なん)ぞ答處(たつしょ)の親しきに如(し)かん」は、阿難の問は成ってゐないが回答者が「阿難!」と親しく呼びかけて「ハイ」とその素直さを引出したところは流石に涅槃妙心(ねはんめうしん)を傳へられた迦葉(かせふ)であると賞(ほ)めたのである。

 

 

 

「幾人か此(こゝ)に於て眼(まなこ)に筋(きん)を生ず」何も佛法は難(むつ)かしいこともないのに、佛法とは「ハイ」のあるところにあるのであって、何か難(むつ)かしいもののやうに思ってゐるのは、それは心の眼(め)に病あって血走った筋が出来てゐるからである。

 

 

 

「兄呼(けいよ)び弟應(ていおう)じて家醜(かしう)を揚(あ)ぐ」兄が弟を呼び、弟がハイと應(こた)へ、長上に對して年少が素直に従ふ―別に何の變哲(へんてつ)もないところの家庭内の一茶事(さじ)である。

 

 

 

しかしその一茶事に佛法が現前(げんぜん)するのだ。それは陰陽の交代によって生ずる四季の春ではないが、それこそ實相の春、金波羅華の咲き亂(みだ)れたる春、久遠常在(くおんじょうざい)の春であるのだと云ふのが、「陰陽に屬せず別に是れ春」である。

 

 

 

 

谷口雅春著「無門關解釋」第二十二則迦葉刹竿(完)

 

 

 

☆ 今日で「無門關解釋」全て終わりました。本当に長い間おつきあい頂きありがとうございました。明日から三日間ブログお休みさせて頂きます。

 

念のために、神様は休みなしで働いておられるのに、休んでと思われたらいけないので、年2回のお墓参りです。雅春先生はどんなに遠くにお墓があっても国内にいる限り年二回はお墓参りはできると言われましたので、今年二回目のお墓参りに飛行機で行って来ます。

 

飛行機の運賃が一番安いから飛行機で行きます!笑!今年の春はgo Toトラベル使って安く行けました。今回も八月に買って居まして、今日で無門關が終わるとは思っていませんでしたが、不思議にこう云うふうに無門關解釋も終わりましたので、ゆっくりお参りさせてもらいます。帰ってから又おつきあいよろしくお願いします。