無門關解釋

 

 

 

○ 第十五則 洞山三頓(とうざんさんとん)

 

 

 

雲門因(うんもんちな)みに洞山(とうざん)の參(さん)ずる次(つ)いで、門問(もんと)うて曰(いは)く、近離甚(きんりなん)の處(ところ)ぞ。山伝(さんいは)く、査渡(さと)。門曰(もんいは)く、夏(げ)、甚(なん)の處(ところ)にか在(あ)る。

 

・・・以下省略・・・

 

 

 

無門曰(むもんいは)く、

 

 

雲門當時便(うんもんそのかみすなは)ち本分(ほんぶん)の草料(さうれう)を輿(あた)へて、洞山(とうざん)をして別(べつ)に生機(さんき)の一路(ろ)あらしめば、家門寂寥(かもんせきれう)を致(いた)さず。

 

・・・以下省略・・・

 

 

頌(じゆ)に曰(いは)く、

 

 

獅子兒(ししじ)を教(をし)ふ迷子(めいし)の訣(けつ)。前(すヽ)まんと擬(ぎ)して跳躑(てうてき)して早(はや)く翻身(ほんしん)す。端無(はしな)く再(ふたゝ)び叙(の)ぶ當頭著(たうとうぢやく)。前箭(ぜんせん)は輕(かる)く猶(な)ほ後箭(こうせん)は深(ふか)し

 

 

 

 

解釋

 

 

昨日の終わり

 

 

洞山(とうざん)は果(はた)して三頓の棒を喫(くら)ふべきか、將(は)た否(いな)かである。

・・・以下省略・・・

 

讀者諸君(とくしゃしょくん)よ、(諸人(しょにん)に問(と)ふ)いづれが是(ぜ)か非(ひ)か、者裏(このてん)に向(むか)って明快(めいくわい)な判斷(はんだん)を下(くだ)し得(え)たならば、洞山(とうざん)の悟(さと)りを蘇生(よみがへ)らせるばかりでなく、他(た)の人々(ひとびと)にも大悟(たいご)の活句(くわつく)を出(い)ださしめることにもならう、どうぢやと無門(むもん)は伝(い)ったのである。

 

 

 

 

つづき

 

 

だいたい雲門三頓(うんもん三とん)の棒(ぼう)は、どい伝(い)ふ挨拶(あいさつ)をしたから、その挨拶(あいさつ)の仕方(しかた)に間違(まちがひ)があったからと伝(い)ふ理由で棒をくらはせるのではない。

 

 

 

江西湖南色々(かうせいこなんいろいろ)の處(ところ)で修行して來たと伝(い)ふその氣負(きお)った心(こころ)に棒を食(くら)はせるのである。増上慢(ぞうじやうまん)を摧破(さいは)するのである。

 

 

 

かつて花王石鹸(くわわうせきけん)の副社長だった山崎高晴氏(やまざきたかはるし)と話したことがある。

 

 

 

氏は基督教(キリストけう)の關西學院(くわんさいがくゐん)を卒業して更(さら)に同志社大學の神學部(しんがくぶ)に入(はい)ったが、物(もの)はあり餘(あま)れば價値(かち)が低下(さが)ってその價値(かち)は零(ゼロ)になると教へられた經濟原理(けいざいげんり)の答案(たふあん)に「物はあり過ぎれば價値(かち)が低下して零以下即(すなは)ちマイナスになる。

 

 

 

石炭ガラでも少量では道路の地均(ぢなら)しなどに價値(かち)があるが、多過(おほす)ぎればその取除(とりのぞ)く費用に却(かへ)って多額(たがく)を支怫(しはら)はねばならぬ。即(すなは)ちあり過ぎればその價値(かち)はマイナスになる」と書いて提出したので、此(こ)の學生は經濟學的天才(けいざいがくてきてんさい)があると認(みと)められて、推薦的(すゐせんてき)に經濟學部に轉學(てんがく)したほどの明快(めいくわい)なる頭の持主(もちぬし)であった。

 

 

 

基督教(キリストけう)の學校にて育てられたが、日本人と生れて基督教ばかりではどこか物足(ものた)らぬ點(てん)を感じ、佛書(ぶつしょ)を讀(よ)み、佛教の先輩をたづねて歩いた。さうして最後に、萬教歸一運動(ばんけうきいつうんどう)なる生長の家にお入(はい)りになったのであるが、その諸方(しょはう)の佛教の先輩を訪(せんぱい)ねて歩かれたころのことである。

 

 

 

或(あ)る日、南天棒老師(なんてんぼうらうし)の門(もん)を叩(たゝ)いた。應接(おうせつ)の間(ま)に待ってゐると小僧(こぞう)が茶を汲(く)む。そこへ老師(らうし)が出て來られる。そして「まアお茶をお喫(あが)り下さい」と伝(い)ふ。伝はれる儘(まゝ)に茶を喫(の)むと、また注(つ)ぐ、また「お喫(あが)りなさい」と伝はれる。又喫(の)む、また注(つ)ぐ。また「お喫(あが)りなさい」と伝はれる。

 

 

 

幾(いく)ら喫(の)んでも小僧(こぞう) が茶を注(つ)ぐ。さすがの山崎氏も閉口して「先生、もうそんなに飲めません」と伝ふと、老師はスッと立って奥へ去って了(しま)つた。小僧も去る。山崎氏はまってゐたが何時(いつ)まで經(た)っても誰も出て來ない。たゞ氣がついたのは腹に一ぱい今まで飲んだ茶があって、それがこれ以上容(はい)らない位(ぐらい)

に咽喉許(のどもと)まで溜(たま)ってゐることである。

 

 

 

「これ以上、はいらない」斯(か)う思ったとき、基督教や佛教や色々の智慧學問(ちゑがくもん)が頭一杯(あたま一ぱい)に詰(つま)ってゐて、それ以上何(なに)を教へられても容(い)り切(き)らない自分である。このことを老師は懇切(こんせつ)に示(しめ)されたものであることを山崎氏は悟(さと)った。喫(の)んでも盡(つ)きぬ接待の茶湯(ちやたう)こそは山崎氏にとって六十棒であったのだ。

 

 

 

洞山(とうざん)が「胡南(こなん)の報慈寺(はうずじ)で八月二十五日までも修行(しゆぎやう)してをったものでございます。」と答(こた)へたのは、山崎氏(やまざきし)が「關西學院(くわんさいがくゐん)を經(へ)、同志社(どうししや)の神學部(しんがくぶ)を經(へ)、諸方(しょはう)の宗教の先輩を歴訪したものだ」と青年氣鋭(せいねんきえい)の頭の良さで考へてゐたことにも當(あた)るであらう。

 

 

 

問答(もんだふ)の伝ひ方が善(よ)いの惡いのと伝ふことではない。その既(すで)に飽滿(はうまん)したやうに人間智を一杯つめこんでゐる増上慢(ぞうじやうまん)が惡いのだ。

 

 

 

花王石鹸(くわわうせきけん)の山崎氏はその場でそれに氣がついたが、洞山(とうざん)はそのことには直(す)ぐ氣(き)がつかないで挨拶の言葉のどこが惡(わる)かったかと一晩(ひとばん)ぢゆうも考へたがまだ氣が附(つ)かぬ。

 

 

 

そこで、翌朝「私の挨拶の何處(どこ)が惡いのですか。どこが六十棒に價(あた)ひするのですか」と訊(き)いたとは、實(じつ)に遅鈍(ちどん)な馬鹿野郎(ばかやらう)である。こんなのは生(い)きた人間と伝ふ値打ちはない、「飯袋子(はんたいす)だ」ー即(すなは)ちたゞの飯袋(めしぶくろ)なのだ。

 

 

 

「この飯袋奴(めしぶくろめ)!何(なん)のために江西胡南(かうせいなん)をフラフラ彷徨(うろつ)き廻(まは)ってゐたのだ。」斯(か)う伝(い)はれて洞山(とうざん)は始めて悟(さと)ったのである。

 

 

 

そこで無門和尚(むもんをしやう)の頌(じゆ)であるが、獅子(しし)は、その子を教へる親心(おやごころ)で、兒(こ)にその自己内在(じこないざい)の力を發現(はつげん)せしめようとするときには、先仭(せんじん)の斷崖(だんがい)から突(つ)き落(おと)すのである。

 

 

 

併(しか)し「前箭(さきのや)は輕(かる)く」そんなに激しく突き落とさない 。静かに獅兒(しじ)を前方(ぜんばう)へ押しやると、獅兒(しじ)は前(すす)むやうな擬(まね)をして跳躍(てうやく)して、身(み)を翻(ひるが)へして(翻身(ほんしん))親(おや)の處(ところ)へ歸(かへ)って來(く)る。

 

 

 

これではならじと、再び手を叙(の)べて、頭(あたま)の突當(ぶつか)るほど(當頭著(たうとうぢやく))崖(がけ)から突き飛ばすのである。

 

 

 

兒(こ)を愛する親獅子(おやじし)のこの慈悲(じひ)と同じことで、雲門和尚(うんもんをしやう)も最初は一々(いちいち)たゞ當(あた)り前(まへ)の挨拶をきいてやってゐて、六十棒(ぼう)を放(ゆる)してやった。

 

 

 

すると仔獅子(こじし)が身(み)を翻(ひるが)へして戻(もど)って來るかの如(ごと)く、また翌朝洞山(よくてうとうざん)は雲門和尚(うんもんをしやう)のところへ舞(ま)ひ戻って來た。

 

 

 

こんなことでどうなるものかと慈悲(じひ)に迷ふその心を勵(はげ)まして、雲門(うんもん)は「今度こそは!」と強く突き飛ばして、「この飯袋奴(めしぶくろめ)!」とやつつけ

たのであった。これが生長の家で伝(い)ふところの「愛深(あいふか)き冷淡(れいたん)」なのである。 

 

 

 

 

谷口雅春著「無門關解釋」第十五則 洞山三頓(完)     

 

 

 

 

 

 

☆ 江西湖南色々(かうせいこなんいろいろ)の處(ところ)で修行して來たと伝(い)ふその氣負(きお)った心(こころ)に棒を食(くら)はせるのである。増上慢(ぞうじやうまん)を摧破(さいは)するのである。

 

 

と書いてありますが、恐怖はわかりますが、増上慢は落ちなければなかなかわからないですね!笑!