◎ 生命の実相第七巻

 

 

 

○ 天地の開ける音を聞け

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

何よりも現代のいわゆる仕事のない人にとっての禍いは、誰かに雇われて体裁のよい仕事にありつき、ラクをしていて多くの収入を得たいという誤れる欲望である。

 

 

 

考えてもみよ、神が天地を創造(つく)り給うたのは、誰かに雇われて天地製造業になられたのではないのである。「神」は「生命」であるから、それが法爾自然(ほうにじねん)に働き出すとき誰に雇われないでも働きができてくるのである。無作(むさく)の作(さ)である、作為のない働きである。

 

 

 

「雇われなければ働きはできない」という「この我の迷い」を打ち破ったとき、たとえば穀を破った雛(ひよこ)がピヨピヨと鳴きながら、狭い殻の中から新天新に生まれ出て歩み出すように、われらは実に自由な、実に愉快な大きな働きの的を見いだすのである。

 

 

 

諸君よ、わが収入のために働くという殻を破れ、わがもてるところのものが、大きくともまたたとい小さくとも、それをば兄弟なる人類に献(ささ)げるという気になって生活の歩みを始めよ。

 

 

 

昔は「自分のため」に働いたのである。今は「広く全体のため」に働く、このとき我の小さい世界は消え、大我(たいが)の大きな世界が諸君の前にひらける。心の新生とともに新天新地が諸君の前にひらかれるのだ。

 

 

 

諸君その音を聞き、その有様を見、その味わいを知ることができるのだ。前には軽蔑したような小さな卑しい仕事が、実に味わい深い価値尊き仕事となってくるのだ。

 

 

 

『ヨハネ黙示録』にあるごとく天地がその人の前では新しくなってくる。たちまち新天地は外から開けず、内から開けてくることが体験されるのである。

 

 

 

わたしのかねて敬慕(けいぼ)している「新天新地」の体験者の一人なる伊藤証信(いとうしょうしん)氏は、その著『無我愛の真理』の中でその体験を次のように語っていられる。

 

 

 

「わたしは明治三十七年八月二十七夜の心的以前には、寝ても起きても自己の発展、自己の拡張ということのみを考えていた。

 

 

 

当時わたしは真宗大谷派の僧侶学生として東京府下巣鴨なる真宗大学の研究科に学び、支那仏教教理史という研究題目の下に、日々同大学の図書館に通っていたので、差し当たりその専門に関する論文を書いて卒業の用意に備える必要があった。

 

 

 

けれどわたしの学問の実力では、とても支那仏教教理史に関する論文が書けそうになかった。第ーに仏教の何物たるやは愚かなこと、一般の宗教のなんたるやもまだわたしにはつかめていなかった。

 

 

 

もとよりー(ひと)とおりは宗教学の書物も読んだし、仏教の書物も大分読むには読んだが、どうしてもその神髄が分からない。したがって自分は人間でいながら人生なるものの意義がちっとも分らない。他人との議論ならば容易に負けないが、みずからは決して自分自身の議論に服していない。

 

 

 

宗教も仏教もさては人生も本当に解らないで、どうして本当に支那仏教教理史というようなものの論文が書けよう。しかしこれが書けなければ卒業ができない。学校の卒業は自己発展の途上における第一の関門である。もしこれをくぐりそこなったらそれだけ自己発展の進みが遅れる。

 

 

 

さあどうしようかというのが当時のわたしの昼夜断えざる苦悶の一つであった。卒業論文が書けないという苦悶だと言えば、いかにも安っぽい苦悶のようだが、その源泉が人生に関する深い疑問の上に発している以上は、この苦悶はわたしにとっては実に致命傷とも言うべきものである。

 

 

 

こういう苦悶に閉じ込められて、日夜不安と懊悩(おうのう)とに沈んでいたわたしは、自己が自然や人類のすべてから受けつつある、無限の愛護と恩寵(おんちょう)とに対しまったくの盲目となり、

 

 

 

少しの感謝も喜悦も感ずることが、できないで、ただ寝ても起きても自分の不幸不運と意気地なさとをかこっているばかりでさっぱり仕事も手につかず、自分は日々何をすべきかさえ分らぬようになってしまった。

 

 

 

これを後日からかえりみて、利口主義、我慢主義の生活となづけたのである。しかるにかの明治三十七年八月ニ十七日の夜の心的革命以来は心のようすがまったく一変した。

 

 

 

そうして、もうそういう柄(がら)にもない大問題を考えることを止めにした。いな独(ひと)りでに止んでしまった。

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

谷口雅春著「生命の実相第七巻」 天地の開ける音を立てて!

 

 

 

 

 

☆ 問題は魂の進歩の過程

 

 

色々の問題が起こって来るのをのろってはなりません。あなたの魂が進歩の過程にあるとき、その魂を何らかの形で反省せしめるため、又はその問題を契機として「人を赦すこと」を覚えたり「人を真に愛するとはどんなことだ」と悟ったり、「現象の悪の中にありながら、現象を超えて実相を観るすべ」を教えられたり色々の目的をもって、それらの問題が教材として与えられているのである。

 

そんな場合には、「神よ、此の問題が私に与えられました意義を悟らしめ給え」と祈ることによって、何を悟るべく、其の問題が人生に与えられているかがわからせて頂けるのである。

 

問題は必ずしも祈りによって自分の欲する方向に展開しないかも知れない。しかし祈りによって、必ず、自分の魂の発達にとってよき意義をもった方向に解決して行くのである。