◇ 人間無病の原理
ー病気は人類意識の迷い ー
すべての癒す力は自己に宿る「生命」から来るのであり、他から来るのではない。他に頼るものは自己を視ないものである。生命は自己に宿る神であり霊であり、物質ではないのである
◎ 「病気は無い」という事の本当の意味
前回までのあらすじ
人間の實相は「神の生命(いのち)」であるから、完全であるほかはない。生命の實相で「病気は無い」と云うのは、それは現象の話ではない。大抵の人は「病気が無い」と云うと、「この通りに病気があるじゃないか」と反論する人があるのでありますけれども、併し乍ら病気が「ある」と「無い」とか云うのは、現象的に病気があらわれて見えるという問題ではないのであります。その説明の為に一つ實例を申し上げますと、私が新潟県の糸魚川という所で講習をやったことがある。糸魚川というと富山県との県境に近い所であります。そこへ◯◯◯◯さんと云われる人が講習を受けに来て、講習会の體験談発表という時間に自分の體験を発表されたのでした。
その◯◯◯◯さんが云われるのには、自分の子供が ― 六歳位の男の子らしいが―その子が耳だれで毎朝起きると耳から黄色い液體がまあ二合程も枕の上に流れているって云うんです。もっともゴムかビニールの敷物を枕の上に敷いてあるんでしょうけれどももね。それで、あんまりこれはひどいから医者へ行かなければいかんと云うので、その子をつれて、赤十字病院の耳鼻科へ連れて行ったと云うのであります。
つづき
◯ 病気があるんじゃない、あらわれている
それから◯◯◯◯さんは、その子供を連れて電車に乗って自宅へ帰りつつあったと云うのであります。そうしたら、ちょうど、その電車に乗り合わせて来られたのが◯◯先生と言われる生命の實相の地方講師の先生である。◯◯さんは、時々この◯先生から生命の實相の話を聞いたことがある。
その◯◯先生が◯◯さんに、
「あんた何処へ行きなさった?」
「いや、わたくしね、この子供があんまり耳漏(みみだれ)が出るので赤十字病院へ連れて行ってみて貰ったら大変なんです。骨膜まで冒されとるから明日は手術せんならんと言われたのですがね、それで心配してるんです」
と言いましたら、◯◯先生が、
「あんた病気なんてないですよ、人間は神の子だから」とこう言うんです。
「ないちゅったってあるんですよ、お医者さんがピンセットに綿はさんでタンポをこしらえて、それを突込んでこうやったら、いくらでも水飴みたいに黄色い膿が出るんですよ、病気あるんです。現にこのように」
◯◯◯◯さんがこう言いましたら、鎌田先生が
「それは病気があるんじゃないですよ、病気があらわれているんですよ」こう言われた。
「あらわれているのと、あるのとは違うんですよ。人間は神の子であって、病気は絶対無いんですよ、それが實相と云うものなのですよ。そういう風に膿が沢山出ているようにあらわれているのは現象で、それはあんたの『心の影』」があらわれているんですよ。
『子供は親の心の鏡』と教えられています。あんたね、“良人の言うこと絶対聞きたくない”と思っているでしょう。耳というものは“聞きたい”と云う心が拵(こしら)えた器官なんだ。
それが“聞きたくない”と云う心になったら、“聞きたい”と云う心が拵えた器官をこわすことになるんですよ。
あんた、母親がそういう心を持っているから、子供にそれが映って、そして、あんたの“聞きたくない心”があらわれとるのであって、病気があるのじゃないですぜ、あんたの心反省して、その“聞きたくない”と云う心を捨てたら、そしたらそんな耳の病気消えてしまうんですよ。
あんた胸に手を置いてよく考えてそんな心捨てなさいよ」
こう言われた。
そして鎌田先生は電車を降りて行かれた。
つづく
谷口雅春 著 「人間無病の原理」
★ これは根本的な考え方、観かたの違いなんですね。現象世界は象(かたち)が現(あらわ)れた世界、うつし世(現世)常に変化する世界です。元があるわけです。それが実相世界(円満、完全、永遠、無限)の世界が神(仏)が作った世界、お釈迦様もキリストもこれを発見されたのですね!それで病気や、難問などを解決され救われたのです。谷口雅春先生もこれを発見され昭和5年から話はじめたら病気は治る、難問は解決して世界に広まったという事です。本当の人間は神の子で完全円満なんです。だから病気は治る消えるということです。癌だろうが、難病だろうが治ると言うことです。コップの水の中に箸を入れると曲がって見える。写真で写しても曲がって見える、が箸をコップから出すと曲がってない、現象人間もコップの中の箸と同じで癌や、難病、難問、があるように見えているが、本当は無いという事です。
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★ それでは正しい生き方という事で再び生命の實相第二巻のつづきに戻ります。古事記のつづきもいずれ掲載します。
◎ 生命の実相第二巻實相篇(下)
◯ 神への道しるべ
今日の霊界通信に対する前回のあらすじです。
…… そこでこの神と通ずるすなわち神と感応霊交(かんのうれいこう)するにはどうしたらよいかといいますと、それには精神統一ということが第一であります。祈りも読経も静座も座禅も、生命の實相で行なう「神想観」の修行も、すべてこれ精神を統一して、神と自分とを感応しやすくし、神の啓示に導かれて日常生活上に、できるだけ強く深く完全に神をあらわすためなのであります。霊媒による心霊現象研究も有料で実験に応ずる霊媒では、料金をとる手前、本当にその霊魂がこないときには霊魂がでてきてしゃべるかのごとくつじつまを合わせねばならぬので、虚偽や詐術がまじりがちで、ことごとくは信じられませんが、
次に掲げるのは古河鉱業大連支店の青年社員、◯◯◯◯が死んでから、その母◯◯氏を霊媒としてその父◯◯◯氏に通信せられて来た霊界の状態であって、職業霊媒でないから、大部分は信じえられます。そのうちに、こんな一節があります。 ……
つづき
問い「他(た)にも組がいくつもあるだね?」
答え「いろいろの組に分かれています。何を標準として学級を分けるのかというと、それは受持の教師のする事で、主として子供が死ぬ時に因縁によりて導いてくれた神とか仏とかに相談して十分調査の上で実行するらしいのです。もっとも宗教的区別などはある程度までの話で、上の方に進めばそんな区別はぜんぜん消滅するそうです。」
問い「科目はどんなふうに分れているか?」
答え「現世とは大分異(ちが)いますね。算術などはぜんぜん不必要で、そのほか地理も歴史もありません。幽界(こちら)で一ばん重きを置くのはやはり精神統一で、これをやるとなんでもわかるのです。
音楽だの文芸だのも、子供の天分しだいでワケなく進歩するようです。学問というよりもむしろ趣味に属しましょう。趣味があればいくらでも進歩するが、趣味がなければまるきり駄目です。ですから子供たちは一室に集まっておりながら、その学修する科目はめいめい異(ちが)います。」(下略)
この霊界通信は他の信ずべき霊界通信と一致するところも多く、真実性を認めることができるのであります。
この霊界通信にもあるとおり宗教的区別というものは上層の霊界へ行けば無くなるので、「この宗教でなければ救われない」と偏頗(へんぱ)に片寄った執着をもっている間はそんなに高い霊界に行くことができないということをすべての霊界通信は一致していっているのであります。
それから、霊界へ行っての修行が何よりも精神統一が第一だというのはおもしろいではありませんか。
「霊界では精神統一をやるとなんでもわかる。音楽だの文芸だのも子供の天分しだいでワケなく進歩する」と新樹青年(しんじゅせいねん)は霊界の事情を見てきて話しているのですが、
われわれの住んでいる地上の生活もやはり原則は同じことで、精神統一によってあらゆるものが上達し、われわれの境遇運命も徐々に精神力によって支配できるようになっているのであります。
「心が一つの目的物に統一して注意がそこに集中すると、自分と周囲の一切とがその目的物を実現すべき方向に自然に動き出す」というのが最近発見された精神科学の原理であります。
つづく
谷口雅春 著 「生命の實相 第二巻」
★ 趣味があればいいという事です。私には趣味がないです!笑!趣味を持っている人本当に感心しますね!私にはわかりません?唯私の一つの救いが雅春先生の御本を読むこと、いや真理の追求?精神統一?勿論毎朝と寝る前はきちんとやっていますが足が痛い時まだありますね!笑!でも先日数日間朝の30分の神想観があっというまに終わりました。スーと入っていて気づいたら30分経っていました。いよいよ私も悟りの境地かなと思っていましたら、長続きしませんでしたね!笑!だから精神統一が好きとまではいかないようです!笑!