◯ 君民共治の理想郷

 

 

 

ルーズベルト米大統領のブレインであったモルデカイ・モーゼは、大東亜戦争後の日本進駐を通じて、日本の天皇統治の本質を知り、著書「日本人に謝りたい」の中で、戦前日本の天皇と国民の在り方こそ、ユダヤ民族が長年夢に見てきた君民共治の理想郷に他ならなかったと述べてゐる。

 

 

 

日本の占領政策に関はったモーゼは、欧州の王国に君臨する王族と同断に、天皇を排撃する意図を持って、東京裁判や日本国憲法の制定を押し付けた罪過を、日本人に対するユダヤ人の民族的負い目として懺悔を繰り返し、同時に日本人の覚醒と精神的蘇生を切望してゐる。 

 

 

 

然るに、日本人自身の中に御皇室を不要視する者がある。

 

 

 

天皇の存在があればこそ、例へば幕末・維新期の激動期も、日本は国として統制を失わぬ対応を以て乗り切ることができたし、日清・日露の戦役も、また大東亜戦争後の混乱も、何とか乗り切って来ることができた。

 

 

 

現在でも、政府の最高責任者たる内閣総理大臣の首が、いとも易々とすげ替わろうとも、国民が心情不安定にならないのは、深奥に天皇の御存在があるからに他ならない。

 

 

 

戦争や大災害の如き危急存亡の(しぅう)に際して、日嗣の天皇は、国家万民の「祈り」を写す七色の虹となって、国民意識の眼前に御出ましになる。

 

 

 

反日的詭弁家は、この因果関係を逆転させて、「天皇制があるから戦争が起こる」と言う。

 

 

 

平易に言えばこの論法は、医者がゐるから病気になる、消防署があるから火事になると言うに等しい愚論である。

 

 

 

アメリカの日本進駐軍の一員であったヘレン・ミアーズは、著書「アメリカの鏡日本」の中で、天皇の存在が日本を戦争に導いた原因でないことは、天皇親政下の長い平安時代を見れば分かると述べてゐる。

 

 

 

「治にあって乱を忘れず」といふが、天皇不要論者達は、「雨あがって傘を忘る」が如く、日本が歴史上国難に際して、天皇の御存在によって如何に救われてきたかを忘れてゐる人々である。医者の有難味を忘れてゐるのは、健康な証拠かも知れないが、と言って病院も医学部も要らないと言ふ人はゐないはずである。

 

 

 

 

◯ 中心帰一の原理

 

 

 

「車」は部分品の中にはない

 

 

 

………「奚仲造車」の公案についてもう一度考えてみることから始めたいと思います。支那の古代の有名な聖人の王様であった舜の時代に、奚仲という人が生まれて、初めて、車、を発明したというのであります。

 

 

 

彼は折角、車、を組み立てておいて、それを又破壊して、部分品をバラバラにして、一所懸命に何ものかを探していたのであります。

 

 

 

或る人が「何を探し廻っているのか」 と訊いたら、「車、は何處に行ったのか」と言って探しているとでありました。

 

 

 

折角、車、を拵えたのに部分品をバラバラに壊してしまって、「さて、車、は何處に行ったか」と言って探しまわっているのです。

 

 

 

皆さん、車、は何處にあると思いますか。「車」は部分品の中には無いのであります。部分品を一つ一つ幾ら調べてみても「車」はないのであります。

 

 

 

その部分品を組み立てた時にはじめて、其処に「車」というものが現れてくるのであります。  

 

 

 

それでは、何がその部分品を「車」になるように組立てるのであるかといいますと、それは「心」が組立てるのであります。

 

 

 

では「車」という物は一體何處にあるかというと、部分品の中にはなくって、「心」の中に在るのです。

 

 

 

心の中に「車」の原型があり、その原型の形のとおりに部分品が集められて「車」というものができたのであります。

 

 

 

心の中にある「車」の原形こそ本当の「心」の中にある原型(精神的原型)を理念というのであります。

 

 

 

 

◯ 人體を解剖して部分品を點検しても其処に「人間」はない

 

 

 

医学が進歩致しまして、吾々人間を色々に細かく壊(くだ)いて解剖分析して、その状態を調べ、一つ一つの肉體を拵(こしら)えている細胞を研究して、

 

 

 

それはどういう物質で出来ているのであるか、人體は炭素と窒素と燐とカルシウムその他のミネラルなどの集合體であるとか色々とその部分品たる成分を研究してみたところが、

 

 

 

其處には「人間」というものは決して出て来ないのであります。

 

 

 

だから幾ら医学が進歩して人間を細かく壊いて、分析して研究して科学的にその成分が判ったところが、

 

 

 

「人間」というものは部分品そのものではない、部分品の奥に霊妙きわまりなき存在があるーそれこそが「人間」なのであります。

 

 

 

「人間とは何ぞや」という問題は、

 

 

 

このように、その部分品を、細かく分けても出て来ないのであって、「人間」というものは、そういう部分品の集まりではないのであります。

 

 

 

部分品を集めたところの不思議なもの、神秘なもの霊妙きわまりなきもの、それが「人間」なのであります。

 

 

 

「車」も同じことであります。「車」という物の色々のー車の輪であるとか、轂(こしき)という車の心棒を通す所であるとか、心棒であるとか、車の輻(や)とか、或るいは車を引っ張るながえであるとか、それらを一々調べて、「此処に、車、がある」と思って見ても、「車」は無いのであって、そういう部分品を一定のデザインに集合さす

 

 

 

「心」の中にこそ、車があるのだということになります。

 

 

 

人間を単に物質的な存在であると考える唯物論というものは、それは部分品を探せば、其処に車が出て来ると考えたり、

 

 

 

人體を構成する部分品たる蛋白質を研究したら其処に人間が出て来るという考え方と同じ事なのであります。

 

 

 

「人間」は決して物質ではない。物質をこの形の如くならしめているところのその不可思議なる「生命」そのものこそ、「人間」であるということがこれによってお判りになったでしょう。

 

 

 

 

◯  真の日本国家なるもの

 

 

 

車の話や人間の話を致しましたが、これは実は「日本国家は何処に在るか」と云う問題の前提として、即ち「日本国家は何処に在るか」 と云う問題を明らかにする為の準備としてお話申し上げたのであります。

 

 

 

車は、車を発明した人の心の中に在る。それが理念の車であって永遠の存在である。

 

 

 

人間は、人間を発明して製造した不可思議なる存在ー言い換えると神様ーの心の世界に在る。

 

 

 

これはキリスト教でも聖書の「創世記」に、「神その像(かたち)の如くに人を創造(つく)り」と書かれているのであります。

 

 

 

神の言葉によって造られたところの、姿なき神様の完全な姿を現実化したところの完全人間、神様の心の中に在るところの永遠存在の霊的人間、これが本当の人間であります。

 

 

 

ところで日本国家は何処から来たかと云う問題であります。現実的に言いますならば、神武天皇が大和に都を造り給いて、そして六合兼都(りくごうけんと)・八紘為宇(はっこういう)の詔勅を降ろし給うたあの時に、日本は建国されたのであります。 

 

 

 

しかしながら、もっと遡りますと、日本の建国は古事記或いは日本書記に書かれております如く、

 

 

 

天照大神が「豊葦原千五百秋之瑞穂国(とよあしはらのちいほあきのみずほのくに)は、是れ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たる可(べ)き地(くに)なり。宣(よろ)しく爾皇孫就(いましすめみまゆ)きて治(しら)せ、行矣(さきくませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と窮無(きわまりな)かるべし」と詔(みことのり)を以て仰せられたあの時に始まるのであります。

 

 

 

天照大神の「天(あま)」と云うのは天球であります。地球に対する天球ー即ち宇宙のことであります。そして「照」と云うのはその宇宙を照らし給うことであります。で天照大神とは宇宙を照らし給う大神であります。

 

 

 

宇宙の大神の具体的顕現として現われた天照大神様の心の中に、日本国なるものの根本的設計、即ち「理念の日本国」と云うものが造られまして、その理念が天降って来て現実化したのが神武天皇の建国であると云うことになっているのであります。

 

 

 

天照大神様の天孫降臨の神勅そのものこそ、日本国の根本的設計であり「理念の日本国」そのものである訳であります。

 

 

 

キリスト教の聖書では「ヨハネ伝に」「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき万(よろず)の物これによりて成り、成りたる物に一つとして之(これ)によらで成りたるはなし」と書かれているのでありまして、全てのものは言葉によって出来たと云うことが書かれているのであります。

 

 

 

天照大神の神勅即ち御言葉によって出来たところ日本国の根本設計は、「理念日本国」の実相そのものであって、これは永遠不滅の存在であります。

 

 

 

現象の日本国は途中で色々変化するにしても、この天照大神様の神勅にある処の「是れ吾が子孫の王たる可き地なり」と仰せられたその根本設計が壊れると云うことは有り得ないのであって、もしこの根本設計が壊れたものが出て来たら、それは日本国ではないと云うことになる訳なのであります。

 

 

 

それは丁度、車と云うものは、真中に心棒があって周囲が円くて回転するものであると云う車の根本設計たる理念が造られたら、現象の車はどんなに壊れても途中損んでも、又新たにその根本設計に従って、真中に心棒があって、周囲が円くて回転するところ姿が出て来ることになるのであります。

 

 

 

日本の国も神武天皇が具体的に建国なさいましてから後に幾変遷があったに致しましても天照大神様の御意の中に造られた日本国の根本的設計在り方ー即ち根本的理念と云うものは永遠の存在として壊れないものなのであります。これが日本国の実相であります。

 

 

 

*  東京スカイツリーは最初考えた人の心の中にあり、それを設計士が設計して建設されました。