あらゆる人生苦の解決と実例

 

 

 

○ 体温計が麻痺症を癒す

 

 

 

心の作用(はたらき)は実に微妙なもので、信じて「治る」と思えば、どんな治療法を使おうが、どんな薬を使おうが治るのであります。

 

 

 

治らないのはその信じ方がたりないからであります。もうだいぶ古い話でありますが、アメリカにサー・ハムプリー・デビーという医者がありました。そこへ一人の麻痺症の男がやって来て治してくれというのです。

 

 

 

麻痺のために腋(わき)の下に体温計をはさみにくいので、体温計を口に入れさせて、体温をはかってみたのであります。かなり古い出来事であって、患者はこれまで体温計というものを口ヘ入れて検温するという経験がなかったので、これはテッキリ口ヘ入れておけば病気が治る機械だ、と信じて思い違いをしたのであります。

 

 

 

この機械に対する信念が強かったものだから、その体温計を口から出すころには、さしもの麻痺症が治ってしまっていたので医者も驚いたのであります。

 

 

 

クリスチャン・サイエンスの開祖エディ夫人は普通の食卓塩を水に薄めて、ぜんぜん塩からくないようにし、その稀薄な食塩水をいかにも高貴薬(こうきやく)のように一杯のコップの水に一滴たらし、その水を三時間ごとに茶さじ一杯ずつ、末期の腸チフス患者に与えてとうとう病気を治したという実例を発表しています。

 

 

 

「鰯(いわし)の頭も信心から後光(ごこう)が射す」という言葉がありますが、それと同じことで体温計でも、食塩水でも、蒸溜水でも、信仰さえすれば病気が治るのであるとしましたら、何も自分の貴い生命以外のものを信仰する必要はないのであります。

 

 

 

自分の「生命」を信仰し、神の子としての自分の「生命」の貴さを自覚し、これによって病気を治すことにしたならば、人間というものが物質にひざまずいて、どうぞ治してくださいとほかの物に頼む必要がなくなり、同時に自分の「生命」がどんなに霊妙な全能なものであるかということがわかってきますから、こん後病気を怖れなくなるばかりでなく、処世上にもあらゆる点において、この自己生命の強い生きる力の自覚が大いにわれわれを裨益(ひえき)してくれるのであります。

 

 

 

さきほど、私は肉体は物質であるから痛みを感ずるはずがないと申しました。

 

 

 

厳密にいえば心のない物質はないのでありまして、物質がある形をあらわしているというのは、心が背後にあって、物質にそういう形を現わさしめているのであります。で、「物質には心がない」と前にいいましたのは、普通人が考えているところの「物質」というものはこんなものだという概念をまずひきあいに出してきて、そんなら肉体は物質だから痛みはないはずじゃないかといったのであります。

 

 

 

この肉体の痛いと感じますのは心があって痛いと思うから痛いのであって、心がなければ痛いとは感じないのであります。

 

 

 

たとえばちょっと熱い湯がかかれば、われわれの皮膚は赤くなって、しまいには水泡(みずぶくれ)までできてきますが、死骸にちょっとぐらい熱湯をかけても赤くもならず水泡もできないのであります。死骸はいわゆる「心」がないから、本当にクラクラ沸(たぎ)る湯の中へでも入れて本当に物質的に変化を起こすほどの時間煮なければ色が変わるようなことはないのであります。

 

 

 

ところが生きているわれわれは、ちょっとした熱湯をあびてもスグ皮膚の色が変わり爛(ただ)れて来たりすることがあるのであります。これは熱湯をあびたから火傷をするに違いない、皮膚が赤くなって水泡(みずぶくれ)ができるに違いないというわれわれの心の信仰が肉体の形や色に変化を与えるのであります。

 

 

 

だから「熱い」という観念、「火傷をする」という観念をわれわれの心のうちから取り去ってしまうと、炎の中へしばらくぐらいは手を突っ込んでも、焼け火箸(ひばし)を手でしごいても火傷をしないでいることができるのであって、これは御嶽教行者(おんたけきょうぎょうじゃ)の「火渡(ひわた)りの術」などにも見ることができるのであります。

 

 

 

そんなら「熱い」という観念、「火傷をする」という観念をとり去ってしまったら、火の中へ数時間坐っていても焼けないかと申しますと、そうはまいらないのであります。

 

 

 

これは「火の中に坐っていれば焼ける」という人類全体の信念の力が、火中に坐っているただ一人の「焼けない」という信念の力に打ち勝つからであります。

 

 

 

この人類全体の信念を人類意識(race consciousness)といいます。われわれがこの人類意識の外に超出しえない限り、われわれはその影響を受けるのであります。

 

 

 

昔、ある名僧は「心頭を減却すれば火もまた涼し」といって、炎の中に坐って、熱いという考えを心から除り去って、ぜんぜん熱いともなんとも思わずにいたけれども焼けて死んでしまったのであります。

 

 

 

江間式心身鍛練法の講習などをみると、刃渡りの術といって、抜き身の刃の上を跣足(はだし)で歩く修行をさせたりしますが、この術を受けても必ずしも身体が鉄のように固くなって、どんな剣も槍(やり)もその肉体にとおらなくなるというのではありません。この刃(やいば)を上向きに並べた抜き身の上をわれわれは誰が歩いても力が平均にかかれば足の裏は切れるものではないのであります。

 

 

 

このためにこの実験に使う刀は刃を両方から研いでつけてあるのであって、片面研ぎのものを使うとこの刃渡りの術はできにくいのであります、この力 が平均に、片よらないで相手に向かうということが江間式に限らずいろいろの霊的修行の中心になるのであって、心に恐怖心ができれば、どこかにスキができて、本来なら自分が傷つかないのが当然であるべき相手にぶつかっても自分を傷つけることになるのであります。

 

 

 

ところがたいていの人は心に恐怖心があるために、本当に皮膚や肉が煮えてしまうほどの熱さにあわなくても火傷や火ぶくれができるのであります。

 

 

 

砒素(ひそ)のような毒薬(どくやく)や硝酸(しょうさん)のような劇薬ならいざしらず、一般の人間がおよそ普通に食べている食物なら、これは人間が神から与えられているのですから、それを食べたからとて本来なら胃腸を害するなどということは決してないのであります。しかし胃腸病の患者にかぎって、あれを食べると胸が焼けるの、これを食べると下痢するのと、しじゅう恐怖心で食べ物の小言ばかりをいっていますから、ますます言葉の力で食物に対する恐怖が強くなるのであります。

 

 

 

この恐怖のために自分の心が相手の食べ物に対して平然として片よらないで立ち向かうことができない。そのために消化液の成分にも片よりができて胃酸が多くなったり、ペプシンの分泌が少なくなったりして、食べた物が完全な消化をえないで腐敗することになるので、これが胃腸病の本体であります。

 

 

 

それはちょうど、踏んでいる足の力が平均に刀の刃に立ち向かわなかったら足の裏が切れるのと同じで、本来なら傷つかずにすむべき胃腸がまず食べ物に「気合い負け」して、食べ物に傷つけられることになるのです。

 

 

 

クリスチャン・サイエンスの開祖エディ夫人は砒素のような毒薬を飲んでそれで人間が死ぬのは砒素という物質の力が人間を殺すのではない。砒素を飲んだら死ぬという人類の信念が人間を殺すのだ、とまで極言しているのであります。

 

 

 

「それなら毒殺せられる人や、毒と知らずに食物をたべて中毒するような人は、心でそれが毒だと信じないで死ぬではないか」とエディ夫人に反問した人がありました。するとエディ夫人は、「毒と知らずに食べた人やその周囲の数名は毒だと思わなかったかもしれないが、人類の大多数の腹の底に隠れている信念が、それを毒だと認めているから、大多数の人類の信念が合併して実に大きな信念となって、その信念の力によってそれが毒となって、それを飲む人を殺したので、物質そのものには決して人を殺す力などはないのだ」と答えたのであります。

 

 

 

このエディ夫人の答えは なかなかおもしろい答えであります。人間というものが、本来「心」であって「物質」でないならば、物質が人間を生かしたり殺したりするということはできないはずであります。

 

 

 

「心」は「心」自身のはたらきで生き生きとしたり、弱ったりするほかに生きる道も死ぬる道もないのであります。また人間というものが本来「心」ではなくてその本質が物質であるならば「心」のない物質には生きるも死ぬるもないのですから、それではぜんぜん問題にはならないのであります。

 

 

 

それで、こういうことが解るのであります。物質がわれわれを治したり、殺したりするのは、第一、人間というものが「物質」ではなく「心」でできている生命(いきもの)であるということ。第二、物質というものは色や形や特有の性質をもっているように思われるけれども、ほんらいそんなものは無であること、すなわち『般若心経(はんにゃしんぎよう)』にも説いてあるように物質の色声香味触法等(しきしょうこうみそくほうとう)の諸性質はすべて無であって、ただその背後(うしろ)に個人の信念、または人類の信念という「心」の作用が働いておって、この信念の力が人間という「心の生物」を治しもすれば殺しもするということであります。

 

 

 

つまり人間は物質という死物でないからこそ生き死にがあり、物質だと思っていたものも、その実は「信念」(ひろくいって「人類意識」または「宇宙意識」)が仮に形をあらわしたものであるから、人間という心的存在に関係をもちうるということになるのであります。それでわれわれは人間と薬との関係を、物質と物質との関係のように思って いたのが誤りであることがわかり、人間と薬との関係は「心」と「心」との関係、意識と意識との関係であることが覚(さと)られるのであります。

 

 

 

 

注  藤原敏之先生の御本に

催眠術にかけて竹の棒を握らせてこれは真赤に焼けた火箸の棒だといったら握っている少年は熱がって竹の棒を離したら手のひらが水ぶくれになっていたと書いてあります。詳しく書きますと、藤原先生の友人が催眠術をかけていたら、中学生達(戦前)が来てインチキだ、そんな催眠術なんかかかるわけないというものだから、友人はじゃ!かけてやると言ってその少年に催眠術をかけたらすぐかかって、竹の棒を握らせたという事です。そしてこの棒は真赤に焼けた火箸の棒だと言ったら、竹の棒持って少年は熱がって顔をしかめていて棒をはなしたら、手のひらが真赤に焼けた火箸を持ったように焼けただれて水ぶくれになっていた書いてあります。竹の棒で火傷するんですよ!と書いてあります。