愛は刑はよりも強し
默想について
42頁~44頁
ライファーにとつては「詩篇」は默想の言葉集である。默想は一種の藝術であり、藝術中の最大の藝術である。何故ならばそれは何ら因襲的な標準的形式にとらはれてゐない藝術であるからである。デーリーのあげた默想の効果は三種である。
1、默想は、默示を招き寄せる意識の状態を構成せしめる。そして默示を傳達するに適した最善の方法である。
2、默想は今まで親しみも敬遠の感じもいだかせなかつた人の周圍に威巖の感じを備へしめるやうになつた。それは宗教臭いと云ふ感じなしに宗教的氣分を其人に備へしめる。それは人をして眼立つやうにもしないし眼立たぬやうにもしない。丁度中庸の人間たらしめるのである。それは靈的プライドを捨てしめる。それは神聖ぶる心の病ひに中和劑を投ずるものであり、宗教的自己滿足の愚かさを緩和する。そして聖靈の正面に坐せしむるよりも聖靈の背後に坐せしむるのである。そして健全なる心境を養ふのである。
3、默想は肉體又はその性質及び機能に急激な苦行を加へずして魂を解放する。
何を默想するかと云ふことは、これは極めて重要な問題であるとデーリは云つてゐる。得られる結果は、默想を行ふ動機及び題目によつて異るのである。例へば、その默想する事柄が發明や、油繪や、遊戯であるならば、その他のものを生ずると云ふことはないのである。その代り、その問題とする特殊の項目に光を増さしめるものである。若し死と靈界のことを題目として、默想するならば或る種の靈的經驗を生ずるか、或は如何にも眞實らしく見える様な幻覺の世界に引附けられるのである。『自分は誰であるか」の本質を默想するならば、心と情操とに平和を―すなはち人生の眞の憩ひであるところの涅槃的精神状態に到達する。それはまことに悦樂ではあるが高き意味での自殺即ち精神的麻酔に陥り、心を弱き不安定の状態に陥れる可能性がある。權威ある靈的人格を對照として默想するならばそれに相應する眞理の理解が得られる。…『神はわが羊飼。我は乏しきことあらじ』と云ふ聖句を默想すればセンセーシヨナルな、または光耀的な感激は出て來ないが、眞理に對する理解を深め、
信仰を大いに増大する傾向がある。