③愛は刑よりも強し

宗教的光耀後のデーリー        6頁~13頁

スター・デーリーが宗教的光耀を魂の内に感じて炬火のやうな熱情をもつて牢獄生活の友達を顧みた時、彼はこの悦びをそれらの人たちに頒ちたいと云ふ願ひが、沸々とたぎり立つやうに感じられて來るのであつた。彼は自分の宗敦的法悦の寶石をあまりにも誰彼の見さかひもなく、會ふ人毎に、まだ熟しない魂の用意の出來ない人々に投げかけるものだから、其處に困難な問題が起つて來るのであつた。彼は自分が受けて悦ばしいものならば、他の人に頒ち輿へて悦ばれない筈はないと考へるのであつた。問題は次から次へと起つて往つた。それは併し、もう監獄の役人との間に起る紛糾ではなく獄中の囚人との間に起る問題であつたのである。

デーリーの宗教的轉囘は獄吏たちには知らせないでも日常の生活が悉く變化してしまつてゐるので、それみづからが證明であつた。囚人同士のあひだでもデーリーの變化はハッキリ判らないのではなかつた。しかしこのデーリーの善への轉囘は囚人たちにとつては魅力あるものではなく、却つて嫌惡の念をもつて迎へられたのである。彼らは轉囘者に對しては憤怒と拒否とをもつて臨むのが常であつた。彼らはデーリーについて皮肉な當てこすりの語調をもつて噂するのだ。「あいつは窩(あな)の中で手錠でぶらさげられて節操を曲げちやつた弱蟲だ」と云ふ調子である。

今までデーリーは「憎惡」の惡徳を福音として説いて來たのである。そして獄中の囚人たちの同じやうな福音を説く人たちと共鳴し合つて來たのである。デーリーみづから過去に於いては、宗教を信じ出したなどと云ふ友人がゐようものなら懐疑の眼を投げかけたものであつた。その同じデーリーが、その輕蔑した宗教とやらの魔力に腑甲斐なくとらへられたと云ふのであるから、同僚の囚人たち仲間に二重の疑惑の眼をもつて見られるのも不思議はないのである。極々最近までは獄中で暴動を起すやうな者に共鳴し、同情し、それを指嗾して來た彼であつた。ところが彼は今や一轉して此等の人々には同情を示さなかつたし、彼らの罪や反抗に對して友愛的な態度をも示さなかつた。そして寧ろそれを押し止めるやうな説教をする彼であつた。嘗て舊い憎みの讃歌に調子を合はせてゐた彼の心は、最早そんな地下の魂に調子を合はせることなく天上の世界に調子を合はせる自分と變つてしまつてゐたのである。

普通の世間に於いて、今までの惡人が善人に轉向したと云ふやうな場合には、周圍との調和はこれよりも尚一層容易に行はれたに相違ない。自分を嘲笑するものとは離れるやうにし、自分に共鳴するやうな者にだけつき合ふやうにすれば好い譯であるが、獄中ではさうは行かない。鐵の扉が其らの者たちと一緒にデーリーを鎖ぢ込めてゐるのである。いやでも應でも彼を嘲(あざ)笑ふ者たちに顔を合はさなければならないし、氣のくさるやうな彼らの言葉を聽かねばならなかつたし、「轉向者の匂ひをかざ出すために今まで敵であつた監獄の官吏に節操を賣るオトリとなつた卑怯者よ」と云ふ様な眼差しをもつて見られなければならないのだつた。かくて此等の同類の囚人たちと一緒に生活しながら異端者扱ひせられる苦痛はまことにも耐へがたきものがあつたのである。

デーリーは此の魂の轉向以前には仲間に名前を賣つてゐただけに、轉向後は一層監獄の官吏の中に名前を賣ることになつたのである。囚人仲間に謀叛者扱ひされながら、それを耐へ忍んで、此の苦痛の谷を渡り切ると云ふことには新しい信仰の強い補強が必要であつたのである。デーリーの生活の變化が胡麻化しのものでなく純粋のものであつただけに、それはたしかに苛烈なる試煉であつた。それは彼の新しい生活の基礎をゆるがしさうであつた。併し人間力でもう殆ど耐へられないと思はれる時には、それを支へる力と、それに打ち克つ力とが不思議に何處からともなく與へられた。

デーリーの心の中に燃えつつある希望は、此の新しく發見された魂の法悦の生活を他の人たちに頒ち與へたいと云ふことであつた。これが彼に力を輿へたのである。『汝の敵を愛せよ」と云ふキリストの教へをどこどこまでも離れまいとするこの努力が彼に力を賦輿したのであつた。しかし如何にしてこの嘲り笑ふこれらの敵を愛すれば好いのか。その方法は如何? 彼にはこれが問題であつた。彼は誰かれの區別なく熱情をもつて直接説かうとしたがそれは失敗であつた。今度は黙し、忍んで心によつて相手をよくしてやらうとする間接的な方法がとられることになつたのである。

デーリーは彼ら囚人達に直接話しかけてよくしてやらうと云ふ考へを抛棄した。彼ら囚人はデーリー自身の自己改善のためにー「あの見苦しく見える極惡者の中にも善にして尊い神性がある」と云ふことを静かに拜み出す自己の力を養成するための自己改善のためにー彼らが自分の敵ーとして自分の眼の前にあらはれてゐるのだと考へるやうになつたのである。かくて、デーリーの囚人達を善導したいと云ふやうな高慢な心は彼の生活を導く主動力としては消えてしまつた。かくて自分自身の魂をみがくために興へられた手段として、其處にあらはれて下さつてゐるのだと受けることが、デーリーの生活活動を導くことになつたのである。

かくして彼はすべての敵の姿を自分の心の畫廊に陳列して、それに心のイメージで修正の補筆を加へることにしたのである。即ち彼らと自分との關係を愛の關係において、眞實なる、高貴な友情の關係に於いて、現にあると心に描き、その状態に於ける姿が彼の眞の姿であると、觀ようとしたのである。これは『生長の家』で云ふところの『實相を觀よ』と云ふのと同じである。デーリーはそれを「この實践は人生に於ける『高き悦樂のゲーム』(highlyfascinatinggame)となった」と書いてゐる。それ以來、驚異すべき事實が續續として起つた。今までデーリーを避けてゐた囚人が突然豫期もしないのに親しみ出して來た。そんな奇蹟がデーリーの展(ひら)けかかつてゐた人格に鐵の信念を加へるやうになつたのである。

愛は缺點を見てそれを矯正することではなく、そのいたい傷に觸れることではなかったのである。愛はその人の傷をやさしく包んでその人の缺點の奥にある圓滿完全なる實相を、じっと愛の心で眺めやり、これが彼の實相であるとそれを心でいたはり育ててやることであったのである。デーリーはかかる愛の實踐が、ハッキリと敵の陣營にあった人々に此のやうな奇蹟を演ずる事実を見た。そして彼らを隔ててゐた牆壁が霞の様に消えてしまひ、新しい、より高貴なる基礎の上に昔あつた友情が再建せられる事實を見た。それは彼にとつて最も神秘な、幽玄な、彼が今まで發見し得ずにゐた愛の神秘力についての最も美しい事實であつたのである。それは一々の場合において、一々の間題に周到に意識的に應用して實踐し得る愛の奇蹟であつた。彼は實驗と經驗とによつて愛の焔が、どんな復活しがたい魂にも到達し、その石のやうな堅い殻をも熔融し、到底見込がないと捨てられてゐた極惡非道のものをも轉囘せしめる不思議な力があることを知つたのである。ここにこそどんな強靱なキリストの
敵、人類の敵にさへも神の與へたまふ恩寵があるのである。かかる神の愛の力が彼にも與へられて、彼を通して人々に領ち得るとは何と云ふ悦樂であらうとデーリーは知ったのである。

デーリーはこのやうな自己に起こる現實の愛の奇蹟がこんなにも驚くべき効果を擧げるのを見るにつけ、この方法が何故感化事業や杜會改善事業に應用せられて實際的効果を擧げるに到らないのであらうかと疑はずにはゐられなかつた。こゝに問題が彼の前に横たはつてゐたのである。
既にデーリー自身が監獄にゐた間の長い年月には、一ダースにもあまる教誨牧師が、彼をキリストの扉と通して、悦ばしき新しき生活の端々しい緑濃き沃野に熱心に導かうと試みたけれども無駄であつたのである。彼ら牧師はキリストの幅音をもつて武装してゐたけれども駄目だつたのである。たゞ囚人仲間にゐた、一人の素朴單純な老人ライファーが、キリストの教へを解明してくれ、神をして現實に接近して知り得るものたらしめるやうに、その教へを解釋してくれた場合だけは別であつたのである。しかし何故、牧師達の説教は失敗したのであらうか。彼らは兎も角も「愛」の神秘なる力を握りながらも、それを相手にそ々いでその再創造の力を彼らに指し向ける方法を知らなかつたのであらうか。又、その教悔の仕事に愛の力を使ふことが出來なかつたの、だらうか。若しそれならば何故であらう。デーリーは此の點について考へて見たのである。成る程教誨師たちは自分たち囚人に對して或る程度の愛は持つてゐた。しかし實際その愛は充分なものであつたであらうか。恐らく、それらの
愛は幾世紀もの間繼續して來た囚人に對する杜會の態度によつて築き上げられた偏見をもって完全さを失つてゐたのである。また其の愛は餘りにも神學的な學問によって力を失ってゐた。デーリーを導いてくれた老囚人ライファー。が此ら牧師と異る點は彼がこれらの牧師ほど教育がないと云ふことであつた。彼はデーリーと同じ境遇のレヴェルにゐて教へてくれたと云ふことが彼に有利な位置を與へたのかも知れない。併し、眞に一人の囚人が他の一人の囚人を導くことは至難の業であるのである。それには彼が眞にその教義の上に生活してゐると云ふことが必要なのである。ライファーは實際その人であつたのである。彼はその肉體の細胞の一つ一つにキリストの福音を生きて來たのであつた。彼は生活體驗を通して福音の各章句の意義を解説する幾多の鍵をもつてゐたのである。例へば、彼はヨハネ傳第第十三章三五節の『これによりて爾曹(なんぢら)わが弟子たるを知らん。汝ら互に相愛すべし」と去ふ語を、其の言葉通りの意義に於いて實践的に生活したのである。

デーリーがライファーと親友になつた初めにライファーが彼に話したところの語は、「人が人の弱點に觸れることなく愛すると云ふことは最大の愛である」と云ふ言葉であつたのである。彼は「人を愛すると云ふことは、人を知ると云ふことである。人を知ると云ふことは彼を助け、癒すことが出來ると云ふことである。かやうにして神は、愛を通してその癒す力を働かせ給ふのである」またラィファーは云つた。「愛は決して失敗しない。愛は恐怖をかなぐり棄てる。愛は法則を成就するものである。汝の宗教が正しいか否かのテストは知識や智慧ではない 。憎みにみたされたる無神論者も知識や智慧は持ち得るのであるが、それは眞の信仰でも信條でもない。悪魔でさへもある意咲では信仰をもち不屈の信條をもつてゐる。然しそれには眞の癒しの力も、聖句を解釋する眞の力もない。……眞の宗教なりや否やの最後のテストは、彼が愛に滿たされた魂を有ってゐるかどうかの問題である。神の愛と人の愛とを持ってゐるかどうかの問題である。汝に宿ってゐ神の愛は、神が爾の中に働き
給ふのである」
(「リリーズ」七二頁)