(王貞治展より参照 http://www.mitsukoshi.co.jp/store/1010/oh/ )
「そんな変化球は、前裁きでスカーッと打てばいいんだよ!」
「あのぉ~…そんな芸当ができるのは、王監督、、、、あなたくらいのもんですよ!」
王貞治、彼をして努力の人と言う人は多い。
がしかし、天才でもあった。
いや、天才でなければあそこまでの域には達せない。
そんな天才が努力をしたから、世界ナンバー1になったとも言える。
「なんで、自分の部下たちは、こんなこともできないんだ!?」
そんなことを悩むリーダーがいたりする。
様々な場面で、そのリーダーの姿を見れば、
下積みの努力をしなくともハイレベルな結果を生み出せたている。
それはもう、センスの良さだけでは評価しようも無い、“天才”である。
しかし、悲しいかな、天才は、自分自身が天才であるがゆえに、
自分自身が天才であることになかなか気づけない。
それが天才の天才たる性。
多くの人が天才という姿を羨む…
しかし、天才だからといって、完璧ではないのだ。
そう、完璧な人間など存在しない。
例えば、天才は、凡才と言われる人たちの現実を気づけなかったりもする。
つまり、
天才は、天才の岸辺から対岸(凡才側)を眺め、
凡才は、凡才の岸辺から対岸(天才側)を眺める。
そのどちらにも言えることは、、、
自分側の岸辺は、見えないということ。
自分の姿は、見えないということ。
すべての物事には、陰と陽がある。
悪があるから、正義がある。
悪が無ければ、正義自体も存在しない。
昼と夜。
男と女。
雨と晴れ。
天才と凡才。
対極の存在。
凡才は、天才たる人物を追いかけ、
天才は、凡才たる人物を理解しようとしたとき、
あるべきコミュニケーションのドアが開かれる。
天才にも半分しかわからない。
凡才にも半分しかわからない。
あとは、努力でしか埋まらない。
